あと一歩という気がする
Q
以前に比べると親子関係はずいぶん良くなりました。アドラーの勉強のおかげだと思いますが…。
A
いやいや、あなたの努力です。
Q
でも、あと一歩という気もする最近です……
A
そうですね。一生あと一歩という気がする。その時がいいのかもしれない。人間というのは目標を追いかけて生きているんです。目標というのは、シャルマン先生曰く、「あれは地平線だ」。追いかけて地平線の位置まで行ったら、向こうにまた地平線が見えるでしょう。だから、そこに到達すると考えないほうがいいんだ。いつもいつも、ずっと遠い先に目標があって、それに向かって生きていくんだなぁと思っていたほうがいい。あと一歩だという気がするというのは、これは正しい状態なんです。
Q それで、息子のことで気になるのは、『根気がない』、『少々しんどくても頑張ろうということがない』ということです……
A
これはどういうことかというと、母親の頭の中に理想の子どもがいるわけだ。これがまだ根強くいるので、現実の子を見るとどうしても引き算をしてしまう。で、マイナスの部分が目についてしょうがない。「えっ、96点なの?残りの4点はどこへ落としてきちゃったの?」と思っている。でも、最悪の子どもというのもいる。“0点の子ども”というのが。最悪の極めつけは、たぶん死んでいる子どもでしょう。それに比べれば、まず元気に息をしているというのはすごくいいことです。五体は満足に動いているし、ご飯も食べるし、大きな病気もせず、学校もちゃんと行けている。こんなありがたいことはないじゃないですか。特別支援学校に行かなくてはいけない子の親のことを考えてごらんなさい。普通の学校に行っている子どもを持ってどんなに楽か。そのことに感謝しないで、「あれが足りない、これが足りない」と言うのは、ちょっと厚かましい。
『根気がない』、『少々しんどくても頑張ろうということがない』と言いますが、だからその子は駄目ということではないんです。そういう生き方で、この社会に対して共同体に対して、建設的に生きることもできるんです。根気良く悪事をすることもできるでしょう。
エジプトのピラミッドは、だいたいが墓泥棒によって荒らされています。だから、中に入ってもほとんど何も残っていない。どうやって泥棒するか。地下にトンネルを掘って泥棒する。でも、1世代では掘り終わらなくて、おじいさんが掘り始めて、お父さんがあとを継いで、孫の世代にやっとピラミッドの下あたりまでつながる。すると、隣村のヤツが先に掘っていて、何もなかったりする。3世代の苦労もパアですわ。そういう根気強さもあるわけで、こんなのはあまりほめられた根気強さじゃないですから、あんまり根気強いのがいいと思わないでください。
Q
それで、少々熱っぽければ学校を休むという具合で、自分で駄目だと思えば力が出ないようです。私としてはもう少し努力するとか根気があってもいいと思うのですが……
A
思わないほうがいいね。 あのね、ギブアップすることもいいことなんです。メチャクチャ努力して体を壊してしまうのもどうかと思うしね。必要以上に頑張ろうというのも無理でしょう。そう思っておくと、とても楽ですね。そう思ってると、そこよりも少しでも頑張ると嬉しいから。「もっと頑張らねば」と思うと、足りない部分しか見えないから。だから、「この子はこんな子だ」と、まず思おう。マイペースで自分の好みや興味に素直な子なんです。それでいいと思う。こちらが、頑張らない子は駄目なんだと、まず決めてかかったら、実際に駄目な子になってしまうよ。だいたい、ちょっと駄目になったら、自分を大事にして少し休んでみるというのも、一方では大事なことだと思いませんか。内科のお医者さんは、ときどき頑張りすぎる患者が来て困るそうです。「ちょっと休んで休憩してください」と言っても、「いや、これくらいの病気では休めません。大丈夫です」と言って、どんどん病気が重くなって死んじゃう。だから、ちゃんと自分で自分の管理ができることは必要です。
それから、やる気がない子どもというのは、目的があってやる気がないんです。すべての行動には目的があるわけで、やる気がないという行動にも目的があるんです。何だと思いますか?勉強しないとか、やる気がなくてボーッとしているとかというのはどういう目的かというと、頑張って一生懸命やって駄目だったら、自分に能力がないということが自分にも他人にもわかってしまうのがイヤなんです。頑張らなくてグズグズやっていて駄目だったら、本当は頑張ればできるんだと思えるでしょう。つまり、なんでそんなことを考えなくてはいけないかというと、この子は結果を気にしているんです。結果が良いか悪いか。なんでこの子が結果を気にしているかというと、親が結果を気にしているからです。途中がどうかではなくて、最終的にはやっぱり試験の成績が悪いと駄目だと思っている。親が思っていると子どもも思う。そういう中で、一生懸命頑張って良い点を取れなかったら大変です。勉強しなくて良い点を取れないのは大丈夫なんです。だから勉強しない。
ですから、こういう子とつきあうときには、結果を気にしないこと。最終的な結果はどうでもいいと思おう。もし、ちょっとでも努力してたら、努力しているところを好きになろう。でも「努力してるから、きっと次の試験の成績は良いでしょうね」と言わないこと。試験の成績は良くなくても、「努力しているのが好きなんだ」ということを伝えてください。
努力と結果とは関係ない。たーくさん努力して結果が悪いときもあります。かと思えば、全然努力しないのに結果が良いときもあります。試験なんてのは半分くらいが運ですから。人生というのも、ひょっとしたら半分くらいが運ですから、コツコツと努力したアリさんは木の下敷きになって死んで、遊んでばかりいたキリギリスさんは長生きするかもしれない。そうでしょう。努力は必ずしも報われるかどうかなんてわからない。努力が楽しいという人は努力すればいい。楽しく努力ができるということはいいことですから。楽しく努力できる子になってくれればいいけれど、努力が報われることとは別なんです。
私の友だちに不幸な人がいます。大学の研究室にいて5年がかりで、ものすごい壮大な研究をして、英語で論文を書いて、アメリカの学術雑誌に送ったら、ひと月前にまったく同じ研究したものが出ちゃって、全然意味がなくなっちゃった。5年の苦労が水の泡です。彼の苦労は報われなかった。でも、彼はがっかりしなかった。彼は実験することが楽しかったんです。名誉だとかお金だとかいう、そうした最後の結果を欲しがっていると、結局そこで投げ出しちゃうんです。もう努力してもしょうがないと思ってしまうから。
きっと、努力をイヤがる子というのは、そのタイプなんです。努力して駄目だったらもうやめようと思っている子です。努力そのものを面白がっていない。大人も、努力するのを苦しいことだと思っている。勉強することや、忍耐することというのは、とても苦しいもので、その苦しさに耐える力を身につけさせようと僕たちが考えると、それは間違いです。苦しさに耐える力なんて、人間にはないよ。自分のことを考えてみてください。苦しいことなんて、まっぴらごめんでしょう。楽して生きたいでしょう。忍耐や辛抱はイヤでしょう。
忍耐や辛抱をしているのは下心がある。これをやっているとあとでもっと良いことがある。あるいは良いことではないかもしれないけれど、「忍耐し辛抱している私って素敵だ」と自分で思えるとか、人から「あなたって忍耐強いね」と言われて気持ちが良いとか、ちゃんと収支決算が合う。だから忍耐できるんです。それがなかったら努力なんてできない。 人間は本来怠け者なんです。努力という取引をすることはある。努力するふりをして、自分とか他人からほめ言葉をもらおうとすることはあるけれど、努力そのものは嫌いなんです。忍耐は嫌いなんです。だから、子どもも忍耐は嫌いなんです。
勉強が楽しくなるようにすることはできます。初めから、苦しいので辛抱するというのではできません。親や教師が「勉強は苦しくてつらいものだ。それに耐えるのだ」と説教すれば、子どもはイヤになります。「これは楽しくてしょうがない」と設定すれば、子どもは乗ってきます。
このお母さんは、「努力忍耐というのは苦しいけれど、それを耐えて頑張るのだ」という発想をしているから、子どもはまっぴらごめんと逃げている。勉強したり、学校へ行ったりするということは楽しいもので、もし楽しくなかったとしたら、どうしたら楽しくなるか工夫をする。遊びなんです。勉強なんて遊びですよ。国語も算数も理科も社会も英語もみんな一種のパズルと同じで、ゲーム感覚で遊び半分でやっていると、とても楽しい。これに私の人生がかかっているなんて思うと、ちっとも面白くない。第一、かかってないしね、本当は。(回答・野田俊作先生)