おしゃべりは直るか?
Q
私はおしゃべりで、直したいと思うんですが、直るでしょうか?
A
無理ですね。だいたい、おしゃべりがなぜいけないんだろう。おしゃべりは楽しいことですよ。言葉少ない人は言葉少ないのが楽しいし、おしゃべりの人はおしゃべりが楽しいんです。そんなのは変えなくていいじゃないですか。たとえ一生しゃべり続けたとしても、共同体のためにそれがプラスになるようにしゃべり続ければいいんだし、黙っていてもそれが共同体のためにプラスになるように黙っていればいいんだし、自分の今現在持っている性質を変えるんではなくて、それが「みんなの役に立つように使われるにはどうすればいいか」を考えてみてください。
子どもに対してもそうです。反抗的な子というのは反抗的なんです。それなのに僕たちは反抗的な子を従順な子に変えようとする。だから失敗するんです。建設的な反抗をする子にすればいい。私なんて建設的な反抗をする見本だと思いませんか。およそ従順な人間ではないと思うよ。科学なんていうのは反抗的な人のおかげで進歩したんです。科学者がみんな従順だったら、教科書に書いてあるとおり、先生の言うとおりで、絶対に先に進みません。「先生は嘘を言っているに違いない。教科書は間違いだ」と思う人たちが、新しいことを発見してくれ、人類は前に進むことができたんです。そういうふうに考えると、反抗的な人たちの功績は大きい。もちろん、従順な人たちの功績も大きい。
ある子どもが反抗的であるか従順であるかは、先天的に決まるわけではありません。それはきょうだい関係の中で、人生のごく早い時期に本人が決心をして決めるんです。一生を「イエス」の線で行くか、「ノー」の線で行くかを。「お兄ちゃんがイエスなら私はノーだ」などと選んでいく。これは、親からはイエスに決めてくれるかノーに決めてくれるかを仕向ける手がないんです。子どもが自分で選んで決めてしまったら、もうそこからあまり変えることはできないんです。僕たちにできるのは、破壊的なイエスや破壊的なノーでなくて、建設的なイエスや建設的なノーを言ってもらうようにすることです。
破壊的なイエスというのはどんなのか。例えばファシズム社会というのは破壊的なイエスを言う人たちによって担われているんだと思います。独裁者がいて、その人たちにおべっかを使う人たちが成り立たせている。それは破壊的なイエスだと思います。この前日本がやった戦争もそうですし、サダム・フセイン(浩→今ならP大統領かM首相かな?)もそうですが、本当は1人では何もできない。悪い奴が1人でどれだけ頑張っても何もできない。そういうのにくっついて、イエスを言う人がたくさんいるからできるんです。
だから、破壊的なイエスだってあるし、破壊的なノーだってある。それを変えるのではなくて、いつも持っているものを最大限にプラスに使おうとすることが大事なんです。持っているものを、みんなのために建設的に使うことを考えさえすればいいんです。それは子どもについてもそうだし、自分についてもそうです。私の持っているこの“軽率さ”はどうやったらプラスに使えるだろうかとか、私の持っている“忘れっぽさ”はどうやったら建設的に使えるだろうかと考えてください。(回答・野田俊作先生)