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スレッドNo.35

論語でジャーナル

31,子曰く、吾(われ)嘗(かつ)て終日食らわず、終夜寝(い)ねず、以て思う、益なし。学ぶに如(し)かざるなり。

 先生が言われた。「私は以前、一日中食事もせず、一晩中寝もしないで思索し続けた。効果はなかった。書物と師について学ぶには及ばなかった」。

※浩→「為政篇」の「学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやうし/つかれる/うたがう)」は、ここの体験を一般化したものだと、貝塚先生は解説されます。「殆」の読み方がいろいろあって、混乱しますが、私は朱子の読み方「あやうし」で覚えています。
 「学ぶ」というのは、書物や先生について“先王の道”を習うことです。先王の道は、人間一般の優れた経験の結晶です。「考える」ことは個人の理性だけに頼った思索です。西洋では、経験論と合理論の対立でお馴染みですが、これをカントが批判的に総合しました。孔子も、一方的な立場に固執しないで、両面からものを眺めるという点でカントに通じそうです。いつも言いますが、アドラー心理学も、「読(聞)・思・修」といって、やはり、書物や師匠に学んで、自分の理性で考え、自分の体で実践する、とバランス良くできています。
 経験論と合理論が出ましたので、少しおさらいしておきます。デカルトと並ぶ近世哲学の祖・フランシス・ベーコン(英16~17世紀)は、アリストテレスの論理学書『機関』に対抗して、新時代の学問に特有な論理(帰納法)を『新機関』で説いています。在来の中世スコラ哲学的学問の非生産的な思弁に不満と反撥を感じて、着実な自然研究にもとづく生産的な学問を打ち立てるべく、学問の大改革を企てました。「知は力なり」がベーコンのモットーです。「自然は征服することによってのみ征服される」ので、まずは自然に従いこれを正しく解釈する必要がある。従来の演繹的な(デカルトは“演繹法”)三段論法の一般原理は少数の事例から飛躍して作りだされている。だから、与えられた感覚的な個別的にもの(経験)から一歩一歩一般的な命題へ上昇し、最後に最も一般的な原理に達する、これこそが自然についての正しい解釈のみちであると、「帰納法」を提唱しました。これを実行するためには、まず人間知性に深く根づいている種々の誤った先入見を取り除く必要があります。これがかの有名な「4つのイドラ(偶像/幻影)」です。ちょうど、アドラー心理学のカウンセリングを実施していて、大事なこととして、カウンセラー自身の先入観をクライエントに押しつけないように常に細心の注意を払っていますので、この「4つのイドラ」をたびたび思い出しています。ちなみに、よく知られている「アイドル」の語源はこの「イドラ」です。
 第一の「種属のイドラ」は、人間という種属に根ざした一般的な先入見です。宇宙の現象をありのままにでなく、人間の持つ不完全な機能や思惑のままに歪めてみる傾向です。これはアドラー心理学ではお馴染みの「統覚(認知)バイアス」のようです。
 第二の「洞窟のイドラ」は、各個人に特有の偏見です。プラトンの「洞窟の比喩」にあるように各個人は自然の光を遮り弱める特有の偏見(各人の精神的・肉体的特性、教育、習慣などからくる)の中に住んでいる。
 第三の「市場のイドラ」は、言葉が知性に及ぼす種々の混乱・弊害を言います。野田先生は、「言葉は地図であって現場でない」とおっしゃいました。『踊る大捜査線』で言えば、「事件は会議室でなく現場で起きている」という、あの会議室ではまさに「言葉」が飛び交っています。
 第四の「劇場のイドラ」は、哲学に見られる伝統的・権威的な「架空の芝居がかった」欺瞞を指します。人は、権威や伝統に従いやすいです。私も油断するとすぐに陥ります。
 ベーコンの所説は、現代から見ると多々批判されるべき点が多いそうですが、それはそれとして、われわれが「傲慢と偏見」に陥らないための知恵も少なからずあると、私は思います。

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