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スレッドNo.355

性格について

Q
 自分は穏やかな性格で、おとなしい気の弱い子だと思って育った一方で、家庭の中では、短気でわがままで自分のことが嫌いで育った。そして、他の人には腹をあまり立てないものだと思っていたのに、最近どうもずーっと腹を立てている。人を好きになれないという気がしてならない。
 「自分がまず相手を好きになればいい」と言うが、それができない。相手の予想外の面を見つければ、好きになるかもしれないが、アウトラインを1つでも教えてください。

A
□「できない」と「したくない」
 1つだけ嘘がありますね。気がつきましたか?それは、「自分がまず相手を好きになればいいと言うが、それができない」というところです。これは嘘なんです。「できるんですがしたくない」というのが本当です。
 僕たちが、これは私にできないと思うときは、もう一度考えてみよう。「人間にはできないことはない」とアドラーは言いました。人間にはしたくないことはある。「私はあの人を好きになりたくない」と言うのはOKです。「好きになりたくない」と言っているときには、責任は全部自分で取っているから。ところが、「私は好きになりたいんだけど、好きになれない」と言っているときには、誰が責任を取るのか。かわいそうな“性格さん”という人(?)の責任です。「私の性格が、私に、あの人を嫌いにさせているので、悪いのは私ではなくて、私の性格だ」と言っている。こうやって、いつも“性格”が犠牲者にされている。
 僕たちは性格の話をするのがすごく好きです。例えば、血液型性格判断。あれは、ありとあらゆる実験や、また心理学的な綿密な研究で、どれも結論が一致している。それは嘘だと。性格と血液型はまったく関係ない。私の友だちは心理学者ですが、彼は血液型がO型で、みんなから「典型的なO型性格だ」とずっと言われてきた。本人もそう思っていました。大学へ入ってしばらくして、彼は献血をしました。そしたら実はA型だったんです(浩→『華麗なる一族』の主人公とその父親がそうでした)。だから、血液型の性格分類なんて、まったく当たらない。にもかかわらず僕たちは、血液型の話が大好きです。
 血液型よりも、もっとアテにならないはずの星占いの話も大好きです。どうしてかというと、自分の性格のことで、例えば、「あなたは徹底して何でも物事を突き詰めてやるほうだ」などと言われると、何かあったときにそれのせいにできるからね。習慣とか性格とか生い立ちとか、また環境とか遺伝とかというものは、ずっとそうやってわれわれの自分自身の責任でないという言い逃れのための口実として使われてきたんです。

□“思い込み”が私を決める
 だから、アドラー心理学はそういう話をするのが嫌いです。きっと、責任逃れの口実にそれを引っ張り出すに違いないから。
 「できない」とは言わない。できないときに「いったい何が私にそれをさせないか」を考えてみる。それは、私の決断が、私の決心が、私にそうさせないんです。だから、「できない」んじゃなくて、「したくない」んです。まずこのことを最初に知っておく。「自分が相手を好きになればいい」と言うが、「それをしたくない」んです。 
 それで、「外では自分は穏やかな性格でおとなしい気の弱い子だと思って育ってきた」とおっしゃいましたが、「思って育ってきた」というのは、すごく正確な言い方だと思います。「私はこんな人だ」と自分で思うんです(浩→“自己概念”)。で、決めていく。「私はおとなしい子」だとか「私はおしゃべりだ」とか「私は無口だ」とか「私は勉強のよくできる子だ」とか「勉強ができない子だ」とかいうのを決めます。
 初めは、子どもが自分自身を決めるときには、わりといい加減な根拠で決めます。小学校1年生くらいのときに、たまたま学校の先生が、「あなたって上手に絵を描くのね」と言ったんで、「自分には絵の才能がある」と決めつける。決めると、そっちの方向へ動く。「自分は絵が上手なんだ」と思った子は、絵を描くチャンスを増やすでしょう。だから実際に上手になっていく。「自分は算数ができるんだ」と思った子は、算数に投入するエネルギーを増やします。だからできるようになっていく。できるようになった結果、「私は算数ができるんだ」と思います。思った結果、また投入するエネルギーを増やします。そうやって、悪循環の反対の“良循環”になる。
 悪循環もそうです。「私は算数が嫌いだ」と思ったら、どんどん嫌いになって、どんどん苦手になる。最初は、ちょっとしたことです。根拠なんてないんです。
 子どもの生まれつきの素質というのは、まずそんなに変わらない。きょうだいは遺伝的には同じものを持っているから、そんなに変わらないはずですが、実際育っていくとすっかり違う。遺伝が性格を決めるのではない。
 では、環境が決めるのか?まあ、かなり影響しますが、決めるのは「本人の思い込み」(主観)です。「私はこんな人だ」と決める。思い込む。それで方向がどんどん変わる。で、この人は、「私はおとなしい気の弱い、外では穏やかな性格だ」と思った結果、そうなったんです。もし違うことを思ったら違う人になったでしょう。違うことを思えば、違う人になれます。今まで30年なら30年、「自分はおとなしい子だと思ってきた。しかし違うんだ、私ってすごい活発な人なんだ」と何かのチャンスに思い込めば、そうなります。急にはなれないけれど、強く思い込んでしまえば、やがてそうなっていきます。
 マインドコントロールという言葉を聞いたことがありませんか?強く望むとそれは必ず実現する。こと、自分に関しては絶対そうです。「私はこうだ」と強く信じれば絶対そうなります。自分と関係ないことについて信じて駄目ですね。「お日様は西から昇れ」とか強く願っても絶対そうなりません。だから何ができて何ができないはあるけれども、こと自分自身の性格だとか、自分自身の生き方ということに関しては、自分で決めたとおりになるんです。
 「家庭の中では短気でわがままだと思った」というのも、そう思ったんですね。そう言うふうに決めたんです。家族以外の人と2人ペアになるときは、「私は穏やかでおとなしく気が弱い」という役割を演じよう。それから家族という名前のついた人と一緒にいるときは、「私は短気でわがまま」という役割を演じようと決めたんです。

□仮面劇を演じている
 性格は英語では「パーソナリティ」ですね。ラジオでおしゃべりする人のことじゃないです。パーソナリティの語源の、“ペルソナ”というのは仮面のことです。ギリシア劇は、仮面劇です。日本の能も仮面を付けます。仮面を付ければ全然変わるでしょう。男の人が女の人の役もできるし、女の人が男の役もできるし、優しい役も、恐い役もできます。同じ役者さんでも雰囲気がガラッと変わります。性格というのを、西洋ではそういうふうに例えています。パーソナリティ、仮面性。「相手がこの人だから、私は今この役をするんで、この仮面を付けよう」と、自分で付けるのが性格なんです。
 西洋には、もう1つ性格を表す「キャラクター」という言い方があります。これも役割という意味ですが、いつの間にか遺伝的に決まっている性格のことを言うようになって、パーソナリティとはちょっと意味が違います。普通、キャラクターは「性格」と訳し、パーソナリティは「個性」とか「人格」と訳します。だから、キャラクターはパーソナリティみたいに、ポンポンと入れ替える仮面という感じではない。
 西洋の心理学では、パーソナリティというものは固定的でずっと存在するものだとは考えられなかったんです。その場合場合に、ポンポンポンと付け替える仮面にすぎないと思われてきた。この人もそうで、仮面をつけ替えてある役割を演じている。
 で、その役は自分1人でやっているんじゃなくて、相手側の期待もあるんです。この家族の中で、短気でわがままをやっていると、家族が短気でわがままな人だと思ってつきあってくれるでしょう。こっちが、短気でわがままでない穏やかなおとなしい気の弱い人のふるまいをしても信じない。「あなた今日、熱があるんと違う?」と言って、コミュニケーションがうまくいかない。だから短気でわがままをやっているほうが、いつもの手順でしゃべれる。もし恐いお母さんが急に優しくなったら、子どもはパニックを起こす。どうしていいかわからないから。恐いお母さんというのは本当はイヤなんだけど、恐いお母さんなら、こっちがどうすればどうなるか、動きが完全に読める。そのお母さんが「SMILE(PASSAGEの前身)」なんかに参加して、付け焼き刃で急に優しくなったら、子どもとしてはまったく読めなくなる。悪いことでも読めるほうが、まだましです、何も読めないより。だから家族はすごくイヤがって、できるだけ元の形に戻そうとするでしょう。

□アドラー宣言を
 「短気でわがまま」と決めている人は、家族から短気でわがままと扱われて、短気でわがままでないふるまいをしたときに、家族は短気でわがままでいるように期待してくるので、つい短気でわがままという役割をまた引き受けてしまう。だから、結局グルグルとそこに戻って、性格は変わらない。家族と一緒にいるときにはね。外ではすぐ変わります。大事なことですね、この知識は。
 僕たちが子どもとつきあうとき、あるいは夫婦間でつきあっていくときに、最初向こうがびっくりするということを知っておきましょう。アドラー心理学を知って、やり方を変えるときに、今までつきあってきた人たちが驚くだろう。驚きの程度は、こっちの変わり具合によるでしょうが。急にものすごく変わったりすると、離婚することだって起こりえないことではないです。
 だから、最初に宣言しておいてください。「今から変わります」と。「アドラー心理学を勉強して、今までのやり方を変えます。最初のころは、どう変えていいかわからんから、とにかくいろんなことをやります。すごく失敗するかもしれませんが、びっくりしないでしばらく見ていてください。元の私に戻そうとする努力はやめてください。前のほうが良かったと言わないでください。とにかく途中は具合が悪いかもしれないけど、辛抱してください」とちゃんとお願いしておいてください。それくらい言っておいたほうがいい。そうしないと、元に引き戻されますから。

□知らないのは私だけ
 そういうふうにこの人は育ってきたわけです。それで、外では他の人にあまり腹を立てないほうだと思ってきたんです。ところが、最近どうも腹を立てている、好きになれないでいる気がしてならないということですが、「私はみんなに腹を立てないんだぞ」と決めているからといって、腹を立てないわけにはいかないんですね。「私は穏やかな人で、めったに腹を立てないです」と自分で決めていることと、それから実際に腹を立てているということは、あまり関係ない。腹を立てないコミュニケーションの仕方、怒りという感情を使わないで、怒りが達成しようとしている目的を達成する方法、怒りじゃない方法で人とつきあうやり方を学ばない限り、怒りは自然に起こります。
 ですから、自分が腹を立てない人だと思っていて、本当はずっと腹を立てているという人はたくさんいます。「あの人はいつもずっと怒っているわ」とまわりの人はみんな知っているんだけど、本人は、「私ってすごく穏やかな性格だなぁ」と思っている。無意識というのはそういうことです。無意識とは何かというと、まわりの人が全員知っていて、当人だけが知らないことのことです。
 「人を好きになれないでいる気がしてならない」ということに気がついたというのは、偉大な第一歩です。本当の自分自身に気がつき始めた証拠だから、すごくいいことです。このことで落ち込まないこと。「私はみんなに腹を立てていて、ずっと1日中怒っているんだ」ということに気がついて、「なんて馬鹿な私」と思わないでね。それに気がついたら、そこから抜けられるから。

□まず自分にいたわりを
 「自分がまず相手を好きになればいいというのは、できない。それはしたくないんだ」というのがわかりました。ところで、相手を好きになるためには、自分を好きでないと駄目なんです。「私は自分のことが大嫌いです。でも人は好きです」というのはありえない。僕たちは他人にひどいことを言います。僕なんか口が悪いから、すごくたくさん言います。ですが、距離の遠い人ほどあまり言いません。道で通りすがりのおじさんに、「あんた、ブサイクな顔をしていますね」と言うと、どんな目に遭うかわかりません。でも、例えば自分の子どもとか配偶者だと、それくらいのことは場合によっては言うかもしれない。距離が近くなればなるほど、相手の勇気をくじいて、傷つけるようなことをわりと平気で言っちゃうんです。
 一番ひどいことを言われているのは誰か?それは自分自身です。自分に向かってはムチャクチャな言葉づかいをします。「なんて駄目な男なんだ、俺は!」ぐらいなことは結構頻繁に言っている。「なんて駄目な男なんだ、お前は!」と、他の人に向かっては滅多に言わない。他人に向かっては絶対言わないくらいひどい言葉を、自分に向かっては絶えずかけるので、かけられている自分の側は、本当に勇気がくじかれて駄目になっていく。そうやって自己嫌悪ということになります。
 だから、一度何かショックを受けたときや自分が失敗したときとか、うまくいかなかったときに、自分が自分にかけている言葉をチェックしてください。それを全部、優しいいたわりの言葉に変えるんです。「あっ、なんて駄目な男なんだ、俺は!と思ってるな。これはやめよう」と。「僕はすごく努力した。一生懸命努力したから、まぁ失敗してもいいじゃないか」というふうに思うわけです。こうやって自分に向かってトレーニングをします。
 同じ出来事に対して、できるだけ勇気づけの言葉を使うトレーニングをすると、他の人に向かっても使えるようになります。自分に向かってひどい言葉づかいをしている人は、他人がイヤなことをすると、自分に向かってかけているのと同じ言葉が頭にパッと思い浮かびます。「なんてイヤなやつだ、こいつは」。それを少し和らげて変えて言うだけなんです。そのままでは言えないから。それをやっている限り、基本的には相手が嫌いなんです。

□ボクは天才!
 最初に、一番ひどい言葉づかいを思いつくというところから脱却して、勇気づけのメッセージを考える。そのために自分を相手に稽古する。これは誰にも害を及ぼしませんから。自分を勇気づけるとき、人を勇気づけるときと1つだけ違うポイントがあります。それはほめてもいいということ。メチャクチャほめるんです。「お前はエライ!お前は天才だ!お前のような自分を持てて俺は幸せだ」。自分と自分の間には縦関係ができない。でも、子どもに言っちゃいけない。子どもに、「お前はエライ!お前は頑張った」と言っちゃいけない。それは子どもを支配することになる。でも、自分には言ってもいい。
 自分を勇気づけるのは、だからすごく簡単です。世の中でほめ言葉と言われていることをいっぱい1日中言って暮らす。「なーんて僕は賢いんだろう。天才じゃないだろうか」。2~3週間もやってごらん。すっかり自分が好きになってくるから。
 思い込めばそうなる。自分に向かって「俺は天才だ」と言っているとそうなります。天才までいかなくても、「すごく優しい人間だ」ぐらいのことを思っていると、本当に優しい人間になる。そこへエネルギーを投入し始めるから。1日の中で、「あんないいことをした、こんないいこともした」と思うようになると、それが増えていく。僕たちが意識したものが増えていく。「あんな悪いことをした、あんないけないことをした」というのを意識すれば、それが増えていく。
 反省は僕たちを変えない。われわれが「悪いことをしたなぁ、あれも良くなかった」といくらリストを書いても、実際またそれが起こるでしょう。いくら反省してもやっぱり同じ失敗をしてるでしょう。というのは、反省の仕方がまずいからです。反省するなら、「こうすればあれをしなくてすんだ」ということを反省する。その前に、「あれはうまくいっている」ということを反省する。「今日こんないいことをした、あれもうまくいった、あれもすごく難しかったけど成功した」というふうに、たっぷり反省する。こういうのを反省と言う。リフレックス、「思い出すこと」というのが、反省のもともとの意味です。鏡に映し出すということ。それで悪い部分については、「次はこうしよう」と思うこと。そうすると変わります。そうやって自分が変わるのと同じテクニックが相手に使えます。(回答・野田俊作先生)

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