夫婦喧嘩
Q
今日、夫婦喧嘩をしたまま講演会に出席しました。原因はたわいもないことです。でも、そのせいで昨日の夕方から今日の昼までずっと不機嫌でした。原因は奥さんに鼻の穴に指を突っ込まれたこと。つまらんことで怒ったと今は思っています。何かアドバイスをください。
A
□夫婦喧嘩の目的
これはとても面白い話題ですね。お話の中にちょっと変だと思えるところがあります。というのは、夫婦喧嘩をしたままこの会に出席するために家を出なくてもよかったことを、この人は知っているんです。「ゴメンね」と言ってから出てもよかったんです。でもそうできなかった。つまり、そのときそうしたくなかった。
どうしてそうしたくなかったかというと、そうすると負けたことになるから。どうしてそれをすると負けたことになるかというと、権力闘争をしているからです。どうして権力闘争したかというと、奥さんと「縦の関係」があるから。奥さんと「横の関係」にまだ入りきれてない。だから、課題は奥さんとどうやったら勝ち負けじゃなくて、本当に協力的な対等の人間関係を築けるかというところにあります。そうすれば、そもそも夫婦喧嘩をしないかもしれない。してもすぐ終わる。
原因はたわいもないことだと言われてますが、でもこの方は原因を覚えていましたから大したもんです。多くの夫婦は覚えていないから。
華やかに喧嘩する夫婦ほど、「初めは何だったの?」と聞いても、全然覚えていない。途中経過は覚えています。向こうが投げたお皿のこととか、こちらが投げたエビフライとか。喧嘩の最初の原因というのは、どっちみちたわいのないことです。大事なのは喧嘩の結果です。
アドラー心理学は目的論の心理学です。すべての行動には目的があると言います。だから、喧嘩にも目的があります。アドラーに喧嘩の話をしたらきっと、「で、結局どうなったの?」と聞かれる。結局どうにもならなかった。何も生まれはしなかったし、何も決着しなかったという場合には、アドラーは、「つまり君たちは喧嘩をしたかったんだ」と答えたでしょう。
喧嘩というのは、エキサイティングなゲームです。だから好きな人が多い。あまりいい趣味ではないですが。この夫婦もこの可能性がある。喧嘩を通して「つながっているな」「僕たちは夫婦なんだ」ということを確認している。というのは、そういう形でしか確認できない部分があるから。もっと仲良しで確認できませんか?
□やっぱり喧嘩は破壊的
昨日の夕方から今日の昼までというのは、ずいぶん長いこと不機嫌なんですね。その不機嫌というのは、何か良い成果を生んだんだろうか。この不機嫌の結果、彼は何か素晴らしい幸せを手にしたのだろうか。奥さんは明るい未来を手に入れることができたのだろうかというと、そうでもないですね。この感情は、結局、破壊的な感情です。確かに仲良しの1つの形態として喧嘩をしてるんだけど、この積み重ねは明るい方向へは行かないです。今は仲良しの一形態として喧嘩をやっていても、将来他のことで、例えば浮気したりして、そんなので本気で喧嘩したときに、このときの喧嘩は悪いほうの証拠として記憶の中から引っ張り出されます。「あのときだって、私がちょっと鼻の穴に指を突っ込んだだけで、あなたは1日中怒っていた。私に謝るチャンスも与えないで講演会へ行ってしまった」てなことを奥さんはきっと言う。特に女性の記憶はそういうふうにできていますから。女性の多くは、「悪いあの人、かわいそうな私」というのがすごく好きです。好きというより、喧嘩の武器にそれを使う癖がある。男性はもっと直接攻撃的になりますが、女性は自分は被害者だということを証明することで、相手を攻撃するという戦略をとることが多いので、こういう出来事は将来ものすごくマイナスな評価として奥さんの記憶から湧き上がってくる可能性はある。だから、ないほうがいい。
「夫婦喧嘩するのは仲良しの証拠だから、大いにすればいいじゃないですか」と言う人はいますが、しないですませられるならそれにこしたことはない。だから、しないですむ方法を考えましょう。
□夫婦喧嘩のコツ
原因は、奥さんに鼻の穴に指を突っ込まれたことですね。さて、このときにどう言えば喧嘩にならないですんだのか(対処行動の代替案)を考えてみる。これが反省です。
正しい夫婦喧嘩のコツが3つあります。言っていいことが2つと言ってはいけないことが3つがあります。それを知っていると、うまくできます。
言っていいことは、「あなたのしたことで私は傷ついた。鼻の穴に指を突っ込まれるのはイヤだ」。それから、「だからやめてほしい」とか、「鼻の穴に指を突っ込まれるのは不愉快なんで、それをしないようにしてほしい」とかというようなこと。自分が感じたことと、これこれこうしてほしいという要求はOKです。
言っていけないことは、まず、相手を罵ること。「馬鹿」「スケベ」とか、そんなことは言わない。それから「相手の考えていることを当てようとすること」。「あんたほんとは私のことを嫌いなんでしょう」とかです。当たっていてもはずれていても駄目。そもそも相手の心を読むというのは、喧嘩のテクニックとしたら、ものすごく汚い。絶対にこじれる。人の気持ちがわかるふりをしてはいけない。ほんとはわかんないから。相手の心を読まないこと。それから第3番目に、相手のコミュニケーションのやり方に口を挟まないこと。言葉尻ね。「その言い方は何よっ」とか。最後の“よ”と言った後ろに、“っ”の小さいのがついていて、「“よっ”て何よっ」とか。そういうことでムカッとしたりするんですが、それを言わないこと。その3つをやめます。
そうすると、言えることはさっき言った2つだけ。「鼻の穴に指を突っ込まれるのは嫌いなんでやめてください」と言うと、まあ普通の奥さんだったら「そう」と言います。「これ気持ちいいでしょう」とは言わないです。それですむと思います。
奥さんがちょっかいを出してくるのはいいチャンスです。そのときには、「それは私には不愉快だからやめてほしい」と言うことに決めておくんです。一度言えたらあとは簡単に言えます。最初の1回だけちょっとしんどい。でも何か悔しい。それだけ言ってやめるのは。
それから、「こじれているときのコミュニケーションは最小限にする」というのがコツです。こじれているとき、コミュニケーションをしないのはまずい。何も言わないでいると、永久にこじれた状態が続くかもしれない。最低限言わなきゃいけないことは言わなきゃいけないけど、最低限にすること。でも、こじれているときに限って、たくさん話したくなるんですね。
□恋人時代に帰ろう
親子とか夫婦とかは、調子がいいときはあまり話題がないんです、あんまり。だからお互いが退屈している。喧嘩をし始めると無限に想像力が働く。結婚以来のすべての疑惑・因縁がズズズッと芋づる式に湧いてくる。
建設的な会話、夫婦が良い感じでできる話のレパートリーを作らないといけないと言われますが、本当はあるんですよ。婚約時代、あるいは新婚時代。どんな夫婦だって、婚約時代や新婚時代には、つまんないことをペチャクチャ毎日おしゃべりしていたでしょう。恋人たちを観察していると、「こいつら、よくこんなアホなことを1日中しゃべってて飽きんな」と感心します。本人たちはすごく楽しいんです。そのころに話題だったことを思い出してほしい。やっぱり夫婦がうまくやっていこうと思ったときに、繰り返し繰り返し思い出さないといけない。婚約時代に何をして遊んだか。これは夫婦の基本的なテーマです。だから、例えば婚約時代に2人でよく映画に行ったんだったら、また2人で映画に行ったらよろしい。婚約時代によく旅行に行ったんなら、旅行に行ったらよろしい。旅行まで行かんでも町内散歩でもよろしい。2人でパチンコに行ったんならパチンコに行ったらよろしい。
そういう夫婦の基本的な遊びのテーマに戻ること。おしゃべりもその時代にどんな話をしたかを思い出して、その話をしたらよろしい。そういうプラスの話題があんまりないというのが、こういうようなマイナスのコミュニケーションをやらなければならない理由です。
□決死の覚悟で
夫婦は何もしないで無為自然にしていると、だいたい退屈します。イヤになります。夫婦というのは、ちょいと努力しないと、維持できない仕掛けになっている。「そんなの水臭い」と言う人がいる。水臭いったって、水臭くて仲が良いのと、水臭くないけど喧嘩ばかりしているのとどっちがいいですか?ちょっと努力して、仲が良いほうが私は良いと思います。お互い同士をやっぱり大事にしたいと思います。
この奥さんは最初に鼻の穴に指を突っ込んで、注目関心を引こうとしたわけです。ということは、この旦那さんも、奥さんの注目・関心を引きたいという基本的な動きがあった。きっとそうですね。対人関係の構造が「注目関心構造」で、この夫婦は「注目関心性格」です。それがときどき「権力闘争性格」に変わります。またしばらくしたら「注目関心」までは戻るけど、そこよりもっと前へ戻るかどうかが気になります。もっとポジティブな方向に向けよう。「注目関心の構造」があるときに、もっとポジティブな構造へ帰ることを考える。もしそれがあれば、滅多に注目や関心をこんな方法で引くということは起こらない。だから、「君と一緒に暮らせて嬉しい」とか、一度決死の覚悟で言ってみます。あとはわりとスラスラ言えますから。「どうも条件反射で言ってるな」とわかっても、奥さんのほうは嬉しい。そして、「あなたと一緒に暮らせて嬉しいし、結婚できて良かった」と言っていたら、そう思えてくる。そして本当にそうなってくる。関係全体が「いかにわれわれが結婚できて良かったか。いかにわれわれが一緒に暮らせて嬉しいか」ということを証明しようと動き始めるから。いつもプラスの側に思い込んじゃうこと。そしたらそっちへ少しずつ変わっていきます。
□“ベキ”の迷い道
もう1つ、マイナスの感情に気がついたときに、反省したり落ち込まないためのコツがあります。怒っているとか、あるいは復讐心に燃えているとか、何かイライラしていると気がついたときに、なぜわれわれは落ち込むかというと、「怒ってはいけない」とか、「復讐心に燃えてはいけない」とかと思っているから。つまり、「心はいつも穏やかであるべきだ」と思っているから。いつも優しく愛に満ちて暮らしているべきだと思っているから。これは違うんです。「べき」じゃない、「怒ってはいけない」とは私は言ってない。「怒らないでいることができるよ」と言ってるんです。「復讐心を持ってはいけない」ではなくて、「復讐以外のやり方もあるよ」ということ。その違いをわかってほしいんです。「べき」「べきでない」という考え方は、人間を不自然にします。
アドラー心理学が目指す生き方というのは、聖人君子の言う「ベキベキ」が全部実現できるタイプの理想じゃない。「自然に生きられる」ということ。われわれが自然に生きられないのはなぜかというと、いっぱい「べき」があるからです。「べき」も、合理的じゃない「べき」があるんです。だいたい、「べき」とか「目標」とか、こうなろうという「理想」というのは、そんなに合理的じゃないです。小さいときに決めたものですから。われわれの理想というのは、最近決めたんじゃない。昔決めたんです。子ども時代に。大して経験もないころに、大して知識もないころに、親が教師が言ったことを鵜呑みにして決めたんです。「あなた、腹ばっかり立てちゃ駄目よ」とか、「穏やかな円満な人になるのよ」と言われて、「そうだ、円満な人になろう」と思った。ところが、その親は、穏やかな円満な人でもないんです、全然。円満じゃないんだけど、親はそう言う。子どもは素直だからすっかり信じちゃう。で、「怒ってはいけない。復讐してはいけない。穏やかであるべきだ」と思い込んだ。そんな目標があると、道に迷います。私はどこへ旅行に行っても、道に迷いません。広島も岡山もウロウロしましたが、一度も迷わなかった。なぜかというと、どこへ行くか決めてないから。歩いていれば全部正解です。旅行ってそういうものだと思う。私は旅行に行くと、1日に20キロか30キロくらい歩きます。しかもきれいな名所旧跡めぐりとか山歩きじゃなくて、街歩きをします。広島も岡山もどこでも案内できるくらい、歩き回りました。そうやって歩いている途中にプロセスがある。ちょっとしたお店があったり、おそば屋さんがあったり、面白い造りの家があったりする。
目標さえなければ、人生に迷うことはない。どこにいても正解です。反省したり落ち込むというのは目標があるから。マイナスの感情を持たないでおこうという目標があるので、それからそれると、「あ、道に迷った。えらいこっちゃ」とパニックに陥ってしまう。
□人を操作する癖
どうして悪いマイナスの感情を持ってしまうかというと、相手に何かをさせるためです。感情にも目的があります。その目的は、相手に何かをさせること。怒りの感情の目的は、だいたい相手に今やっていることをやめさせたり、やってないことをやらせたりすることですね。まずそれに気づくことが大事です。
「私はいったいこの感情で、例えば復讐心とかイライラする感じ、落ち込んだ感じ、あるいは鬱状態、あるいは不安、あるいは怒りとかでもって、誰に何をさせようとしているのか」。そんなふうに考えたことはないでしょう。憂鬱で、「あ~ぁ」とため息をつきながら、「かわいそうな私・悪いあの人」あるいは、「イヤな性格さん」と言いながら、私は誰に何をさせようとしているのかを考えてみる。
例えば、奥さんが落ち込んで、がっかりしている。そのときに、「あの人は冷たい。こんなときぐらい会社から早く帰ってくればいいのに」と思っているとすれば、つまりご主人に早く帰ってきてほしいんです。これがわかれば、そう言えばいい。「すみませんが、今夜は早く帰ってきてもらえませんか」と言えばいいだけのこと。何も落ち込んで病気にならなくていい。子どものころ、われわれの親は、僕らが落ち込むと言うことを聞いてくれたんです。子ども時代には、「お父さん、お願いだから今夜早く帰ってきてくれない?」と言ったら、「お父さんだって忙しいんだから」と聞いてくれなかった。でも、僕らが病気になると、早引きしてでも早く帰ってきてくれた。だから、小さいころから感情とか病気とかを使って、人を操作する癖がついているんです。
アドラーの育児では、「子どもの感情に反応して動いてはいけない」と言います。「子どもがソブリで示しているときに動かないで、ちゃんと頼んでくれたときに動いてください」と。それはその子どもたちが大人になったときに、感情で人を操作する癖をつけないように、ちゃんと言葉で人にお願いできるようになってもらいたいからです。
感情的に怒りや落ち込みや不安の強い人は、まずその感情の使われ方・目的を意識していないし、それから目的をたとえ意識していても、それをうまく言葉で相手に伝える技術がないんです。だから、どうやったらこれを相手に伝えられるか、冷静な言葉で考えてみてほしい。もしも口で言えないんだったら、書いてでもいいから、相手に示せるようにする。
□ただ尊敬する
それから、イヤだなあと思う人に対して、好きになるためにその人のことを「かわいそうな人なんだ」と思うのはまずいです。無理に良いところを見つけようとするのはどんなもんかな。かわいそうな人だというふうに相手のことを思うのは、縦の関係です。つまり、同情するということでしょう。
心理学用語に「共感」というのがあります。「同情」というのもある。よく似ていますが全然違う。「かわいそうに」と思ったら同情です。「あっ、この人はこんなふうに感じてるんだな」と思ったら共感です。共感というのには価値判断がない。相手が良いか悪いか、かわいそうかかわいそうでないかという判断がない。相手がいい状態だと思ったり、悪い状態だと思ったり、そしてこっちの感情がそこへくっついちゃうと同情です。
「あの人はかわいそうだ」と思うのは、相手を尊敬していない。尊敬している人のことをかわいそうだとは思わない。アドラー心理学が教える最も基礎にある考え方は、「他人を尊敬しよう」ということです。「あの人は私の尊敬する人だ」とまず思ってみる。
どうして尊敬するのか。無理に良いところを見つけようとするのはどうかという話と関係があるんですが、なんであの人を尊敬するかというと、理由はないんです。人間だからです。ただそれだけ。いいことをしたから、「あの人こんないいところがあるから尊敬する」とかいうんではない。別に長所見つけをやって悪くはないですけど、やんなくったっていい。ただ尊敬する。あの人をただ尊敬しようと思って、自分が一番尊敬する人とつきあうようにつきあってみようと決心する。教師だったら生徒に対して、自分が最も尊敬する人とつきあうように一度つきあってみよう。そして、その結果何が起こるか実験してみよう。夫は、妻が自分の最も尊敬する人であると思って声をかけてみよう。そしたら何が起こるか。
「そうしなさい」と言っているんではありません。いつもアドラー心理学は、「こうしなさい、こうすべきだ、こうでなければならない」と言っているんではなくて、「こういう実験をしてみませんか」と提案しているだけです。こういうふうにするとうまくいくとか、それはこうすべきだとか、こうしたら私が良くなる、相手が良くなると思っていたりすると、うまくいかない。自分が一番尊敬する人とつきあうようにつきあってみて、何が起こるか見てみようというくらいの好奇心でやると、欲がないから、無欲は強い。
□茶坊主の話
司馬遼太郎だったか、池波正太郎だったかの話で、あるお殿様が茶坊主をすごくかわいがっていた。参勤交代で江戸へ行くとき、その茶坊主を連れていこうと思った。ところが、茶坊主を連れていっては駄目なんです。武士しか駄目なんです。茶坊主は武士じゃない。そこで、その茶坊主に武士の格好をさせて、参勤交代に連れていった。
江戸屋敷にいた茶坊主さんが、あるときお使いを頼まれた。ところがお使いに行く途中、刀の鞘(さや)が通りすがりの侍の鞘にパシッと触れた。これはえらいことです。“鞘当て”と言って、向こうのお侍がひどく怒りまして、「武士の魂を汚された」と、決闘を迫られた。それで、「決闘を受けますが、私は主人持ちの身ですから、主人の用事をすませてそのあとで相手をします。夕方の○○どきに××へ来てください。武士に二言はございません」と言った。
それから、剣で有名な千葉周作先生の所へ飛び込んだ。千葉先生はちょうど風邪を引いて寝ていた。「ぜひ千葉先生にお会いしたい」「病気だから会わない」「それではほんのちょっとでいいから、ひと言アドバイスしてほしんです。私は今から決闘して死にます。でも私は茶坊主で俄(にわか)武士ですから剣術をしたことがない。だから斬られて死にますが、主人持ちの身であるから、ぶざまな斬られ方をするわけにはいかない。侍として立派に斬られる方法をひとことご教示願いたい」と必死に頼んだ。
千葉周作先生は、「それは面白い。今まで斬り方を聞きに来たやつは多いけど、斬られ方を聞きに来たやつはおらん。じゃあ、会おう」。で、千葉先生は何と教授したか。簡単です。「まず、刀を抜きなさい。そして目をつむって刀を上段にふりかぶる。そしてじっと待ちなさい。そのうち相手に斬られたと感じ、ヒヤッと冷たい感じが体のどっかにあるから、それがあったらとにかく大上段にふりかぶった刀を振り降ろしなさい。それは相手に当たるか当たらないかわからないけれど、ただ斬られたことにはならない。武士としても面目が立ち、尋常に勝負して斬られたことになる」。
それで茶坊主さんは、その時刻に約束の場所に行ってただ刀を持って構えた。決闘だというので、見物人もいっぱい集まってきた。千葉先生に言われたように、目をつむって刀を振り上げて待っていた。で、相手の侍が、もう来るかもう来るかとと思っても全然来ない。いつまで待っても。まわりがあんまりザワザワするから、パッと目を開けた。そしたら、侍が泣いて平伏している。「参りました。私は今までかなり剣が強いと思っていたけど、あなたぐらいの剣豪には会ったことがない」と。「実はそうではない。私は茶坊主あがりで、剣術は全然やったことがない。さっき用事をすませたらすぐ千葉先生のところへ飛び込んで、死に方を教えてもらってそのとおりにやっただけなのです」と正直に話した。相手のお侍は、「それはすごい話だ」と言って、一緒に千葉先生にお礼に行こうということになった。千葉先生も大いに喜ばれて、めでたしめでたしというお話です。
□遊び心で
つまり、「ああしよう、こうしよう」という気があると駄目なんです。結局無欲であるしかない。親が子どもを、教師が生徒を何とかしようというところから発想していると駄目です。「そうだ、これをやってみよう。それで何が起こるか見てみよう」という、好奇心というか、遊び心というか、そんな気楽なところで動かないと駄目です。
イヤな子を好きになるというのも、とにかく一度その子をすごく尊敬して、いい子なんだと思って、そんなふうなペルソナ(仮面)をかぶって、ちょっと数日やってみよう。一生やりなさいと言われたらイヤです、私でも。1週間くらいならやれます。とりあえず1週間やってみる。それで何か起こるか、それから考えてみる。(回答・野田俊作先生)