職場の主流は「原因論」
Q
ときどきスネたり、どこか体の不調を訴えたりする子がいます。私は、こういうときあまり取り合わず、普通にしているときに話しかけたり、接触するようにしています。しかし職場では、「あの子がスネたりしなければいけないのはなぜなのか、背景(原因)を探ろう」という考えが主流です。私があまり取り合わず、「放っておいて」と言っても、他の人が、「どうしたの?」とか「元気がないね」と声をかけたり、機嫌を取ったりします。私にできることはありますか?
A
「私にできること」?……できることは、(スネているときは)取り合わずに、その子が元気なときに話をすることだと思います。
「主流」というのは、つまり心理学の主流ね。今、学校ではたぶん、“カウンセリング・マインド”という変な言葉が流行っていますが、私はそんな気持ちの悪いものは持つべきではないと思います。アドラー心理学は、日常の暮らしとカウンセリングしているときとまったく違いがないんです。私が家族と話しているときと、カウンセリングでクライエントと話しているときと、自分でも全然変わりないんです。あるいは、学校で先生と会うときも、生徒と話すときも関係なかろうと思います。それは、私がカウンセリング・マインドを持っているからではなくて、私がそういうふうに暮らしているからです。自分の普通の暮らし以外に、何か特別なしゃべり方とか、特別の技術があるわけではないと思っています。ところが、そうでないカウンセラーたちがいます。それは、そうでない特殊なしゃべり方をする人たちで、何か相手の言うことを繰り返したりしますね。例えば、「映画行ったんだよ」「おお、映画行ったのか」「タイタニックね」「ああ、タイタニックなあ」「すごいなあ」「あの映画すごいのか」って言うんです。普段の、日常生活で使えないようなカウンセリング・トークを使うと、カウンセリングしている自分としてない自分を区別するようになります。そこからカウンセリング・マインドという1つの技術としてのつきあい方ができてしまうんでしょう。
そういう主張をしている人たちは、原因論的です。子どもが何かフテくされているときは、きっとそこに何か心理的な原因があると考えます。原因は普通2種類あります。周囲の社会とか家庭に原因があるという考え方。もう1つは、子どもの過去に原因があるという考え方。その過去と周囲とを組み合わせれば、過去の育児というところへ行きます。子どもが教室の中でフテくされているのは、どうもあれは家で面白くないことがあったからだろうと考えます。ということは、子どもが家で暴れたら、学校で面白くないことがあったことになりますよ。どうして、学校でフテくされているのは学校に原因がなくて、家で暴れるのは家に原因がないと考えるのかよくわからないですが、なぜかそう考えます。教師の集会で、「クラスに登校拒否の子がいる」「万引きする子がいる」と言うと、みんなで「家庭背景が悪い、家族が悪い、おーっ!」と言う。今度は親の会に行くと、「家に登校拒否児がいる、万引きする子がいる」と言うと、みんなで「学校が悪い、おーっ!」と言う。両方一緒に集まったらどうするのか、昔すごく興味がありました。そんなときたまたま、両方一緒に集まる教師と親の会に出ました。そしたら、「文部行政が悪い、社会が悪い」なんです。要するに、そこに来ていない人が悪い。ということは、そこにいる人の責任は逃れられるわけです。
それから、「過去が悪い」というのは、「今が悪い」と言ってないということです。アドラー心理学では「今の行動は今と関係がある」と考えます。今ここで子どもが反抗的であったり、今ここで子どもがフテくされているのは、今、私との関係の中で、フテくされている。だから、私がその子が反抗的になるように、何か刺激を出している。もしかすると、私が刺激の出し方を変えれば、その子は変わるかもしれない。まあ、私じゃないかもしれないけれど、さしあたって私だと思っておくと、私が何か変えてみようかという気になります。それで変わればよし、変わらなければまた別のことをやります。
行動を変えるにも原則があります。子どもの不適切な行動のほうに声をかけていくと、子どもは「そうか、不適切な行動をしているとコミュニケーションができるんだな。注目してもらえるんだな。みんなが私のことを大事にしてくれるんだな」と学ぶわけです。それで不適切な行動を中心に、それを話題にコミュニケーションしていく。
そうではなくて、適切なこと、勉強しているとか、お掃除をちゃんとしてくれているとか、あるいは元気に遊んでいるとか、はっきりとお話してくれるとかというほうに注目していくと、「そうか、適切にやってもいいなあ」と学ぶでしょう。だから、“適切な行動を探して、それに注目をする”というのを原則にしたい。
ところが困ったことに、適切な行動というのは、不適切な行動ほど目立たない。不適切な行動というのは、何しろ不適切というくらいですから、すぐ目立って相手はムカッとくる。「あいつめ!!!」と思う。「適切」というのは全然目立たない。しゃべったり横向いたり寝たりしないで黒板を見ているのは、教師は「そんなのは当たり前」と思う。だからそれに声をかけない。でもやっぱりそれに声をかけていきたい。「私のつまんない授業を、1時間も一生懸命聞いてくれてありがとう」と。
まず出だしとしては、不適切なほうにあんまり声をかけないでいきたい。不適切な行動をするには、それなりに理由、必然性があるだろうから、もしも、必然性を取り除けるものなら取り除きたい。必然性というのは例えば、「注目の中心にいたい」なんて思っているかもしれないので、「注目の中心にいなくても、あなたはとても素敵だよ」と言ってあげられるなら言ってあげたい。あるいは、喧嘩をして勝ちたいと思っていたら、負けてあげたい。だいたい、子どもと喧嘩をしても大人は勝てません。喧嘩というのは、汚い手を使えるほうが勝ちます。男と女では女のほうが汚い手が使えます。泣くとか、叫ぶとか、実家に電話するとか、夫の実家に電話するとか、「もとの19歳に戻してよ」と言うとか。男はこの手は使いにくい。男が夫婦喧嘩して泣くのはちょっとやりにくい。実家に電話して、「お母さん、嫁にいじめられてます」と言うのも、相手の実家に電話して、「お宅の娘さん、私にこんなことをします」とも言えない。大人と子どもが喧嘩をしても、子どものほうがいっぱいいろんな手が使えます。子どもはグレることもできるけど、教師が生徒と喧嘩してグレるわけにはいかない。登校拒否に倣って出勤拒否も具合が悪い。子どもは、そういう手が使えるから、子どものほうが強い。だから、向こうが喧嘩をしようとしたら、まずさしあたって負けることです。「あんたの勝ち」って。
それから、子どもとの関係を少しずつ立て直していく。向こうがそうやって喧嘩をしようと思うのは、それまで子どもを傷つけてきたということです。だから、どこで自分が子どもを傷つけてきたかちゃんとわかって、そこを謝っておく。そうしないと関係は良くならない。(回答・野田俊作先生)