「自主的」と「主体的」の違いは?
Q
「自主的に動く」と「主体的に動く」の違いは?
A
わりとみんなこんな質問をしますねえ……。
「自主的」とか「主体的」とかいうのは、「クジラ」とか「オットセイ」と一緒で、引き出しのラベルなんです。例えば辞書、広辞苑とかその他の辞書を読むと、いろいろ書いてありますが、中身はあんまりアテにならない。辞書というものは、まあ一般的な日本語で書いてあるわけで、辞書に書いてあるのは、ある学者がある論文の中で、ある文脈で使った言葉ではないんです。こういう「主体的」とか「自主的」とかいうのは、まあ哲学的というか科学的な言葉で、そんなのはある学者がある論文なり本の中で、ある文脈で使うから、そのひと言はみんな違います。だからその人の元の文章を読まないとわかりません。
私には私自身の使い方があって、「自主的」という言葉は使いません。論文の中で学術用語としては使いません。使った覚えはありません。「主体的」は使ったことがありますが、辞書と違う、ものすごく変わった定義で使っています。
アドラー心理学の基本前提に「個人の主体性」というのがありますが、「自主的」と「主体的」の違いは、私の中では比較できません。なぜなら、「自主的」という言葉を使わないから。そして、私の使っている「主体的」は簡単に説明できないから。何ページも論文を書かないといけないことだから。それは、広辞苑なんかに書いてある意味とは違います。いつも科学的に使われている言葉というのはそうなんです。
例えば、「サクラ」はバラ科の植物です。でも「サクラ」は「バラ」とは違います。バラ科というのは、「バラ」のことではない。「バラ」と共通のある特徴を持った花の咲く植物の一群を「バラ科」と学者たちが言ったんです。それは「バラ」ではない。「キャベツ」はアブラナ科ですけど、「キャベツ」は「アブラナ」ではない。そんなふうに学術的に使われている単語というのは、たまたま世の中で辞書に載っている単語と一緒であっても、いつも意味は違います。だから、「自主的」とか、「主体的」とかいうのも、使う学者によって全部意味が違います。あまりそんなところにこだわらないほうがいいと思います。ある学者の書いた本とか、論文とかを読んで、そこで使ってあるとおりに使ってあるんです。(回答・野田俊作先生)