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スレッドNo.39

論語でジャーナル

33,子曰く、知はこれに及ぶも、仁これを守る能わざれば、これを得ると雖(いえど)も必ずこれを失う。知これに及び、仁能(よ)く守るも、荘以てこれに涖(のぞ)まざれば、則ち民は敬せず。知これに及び、仁能くこれを守り、荘以てこれに涖めども、これを動かすに礼を以てせざれば、未だ善ならざるなり。

 先生が言われた。「知識でその地位までゆきつくことはできるが、仁徳によってその地位を守ることができないと、きっとその地位を失うことになる。知識でその地位にゆきつき、仁徳で守っていても、おごそかに地位についていないと、人民は敬意を払わない。知識でその地位にゆきつき、仁徳で地位を守り、おごそかにその地位についていても、人民を動かすのに礼の定めに従わないと、まだ十分ではない」。

※浩→吉川先生は、これは個人的な道徳ではなく、政治についての道徳であると解説されます。孔子は、士大夫(上級官吏)の心構えは、「十分な知性(見識)・人民を愛する仁徳・厳粛な仕事への姿勢・古来からの礼制」が揃っていることだと語っています。
 「荘」は、「おごそか」「正しい姿勢」。「涖む」は「定められた地位につくこと(位について人民に対すること)」。
 今の政治家の条件にこれを当てはめると、どうなるでしょうか。「知識・仁徳・荘厳・礼」のすべてが揃うなどとは、夢のまた夢ではないでしょうか。ときどき、「この国に民主主義はあるのだろうか?」と疑いたくなります。選挙のたびに見る投票率の低さ。「民が主」ということは「メンバー個々人が主体」ということになります。一部の権威者がメンバーに一方的に命令を出して組織を動かすことではなくて、「民意」が尊ばれることになります。政治では、「絶対君主主義」とか「貴族主義」とかに対して「民主主義」と言うのでしょう。古代ギリシャでは「民主政」は「衆愚政」に陥ると危惧されていました。今はどう見ても「衆愚政」のような気がします。「平等」と「同等」を混同して、「何でもみんな同じ」でないと、すぐに「差別だ」「人権侵害だ」と騒ぎます。日本は戦後、それまでの反省から、国家による「私権」の侵害にとても過敏になったのでしょうか。「憲法」には、「個人の権利は最大限尊重するが、濫用してはならない。公共の福祉のために利用すること」と明記されているのに、政治家もメディアも「公共の福祉」という言葉はほとんど口にしません。こういう意味でも、この国は「アナーキズム」になってしまっったのでしょうか。その「アナーキズム」も、もとの意味をたどると、この思想の基礎には、「善意の人々」の存在が前提なのだそうです。今の世の中、善意の人ばかりではありません。国内的にも国際的にも。

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