友だちに悪いことをする子がいて、「意見言葉」で注意するが聞かない
Q
学校で教師をしています。友だちに対して、特定の子にきつく当たったり馬鹿にしたりする子がいます。時には他の子を巻き込んで孤立させようとします。「相手の子が嫌いだから」と開き直っています。私はなるべく意見言葉で「~と思うよ」と言っています。スパッと「それはおかしい」と言っていません。それでも、時にはムカついたりフテくされたりします。
この子に、できるなら、嫌いなら嫌いでもいいから、相手がイヤな思いをするようなことをやめてもらいたいんですが、私にできることは何でしょうか?
友人の学級で、靴隠しや誰がやったかわからない事件が起きています。誰も自分がやったと言いません。友人は、犯人捜しもせず、叱らずに「やめてほしい」と訴えましたが、続いています。どうすればやむんでしょうか?
A
どうして「そんなのは良くないと“思う”」と言うのかわからない。「人の道に外れている」と言うべきです。道徳はあるんです。自分の主観じゃない。人間が他の人間を理由もないのにいじめるとか、集団で迫害するとかいうのは、私が好きとか嫌いの問題じゃなく、社会の一般通念として良くない。「良くないと思う」じゃなくて、それは「良くない」ことです。
アドラー心理学の誤用とまでは言わないが、間違った使い方です。“意見言葉”は、自分の意見を、“事実”じゃない“意見”を相手に伝えるとき使うんです。子どもが他の子をいじめるのは事実として、社会通念として良くない。「それは社会では通用しない」と言ったほうがいい。
教師も親も大人は、この世界はどういうところか教えてあげる役割があるんです。この世の習わし、この世のルールをね。
時々妙なルールがある。日本人はご飯にお箸を突き立てるのをイヤがるでしょう。葬式ではやるが普段はやらない。「なんで?」。理由はない。台湾だと突き立てる。それは彼らの国の習慣では何も問題ない。日本の習慣では具合が悪い。子どもを育てるときに、ご飯にお箸を突き立てたら、「それはやめてほしい」と言います。「なんで?」「習わしだから」。この国で暮らすなら、そんなことをしていたら社会で通用しない。誰にも迷惑かけない?迷惑かけないからいいというもんじゃない。それが僕らの文化です。伝統です。習慣です。それを伝えていくのが親や教師の役割です。僕らの個人的な好みでもなければ意見でもない。事実です。そこははっきりわかってほしい。だからといって、子どもに不快な思いをさせて傷つけなくてもいい。
何かを伝える前に、子どもの考えていることを知りたい。子どもの「(心の)辞書」を見たい。友だちをいじめているという行動からだけでは何もわからない。
だから、こっちが助言するのをやめて、行動を正そうとするのをやめて、とにかく子どもが何を考えているか、子どもの「信念」を知りたい。あの子はどんな子なのか。その子とどうつきあいたいのか。どんなときムカつくのか。助言しないで聞く、と決めれば聞ける。
教師の悪い癖は教えたがることです。それは教師ですから(笑)。だいたい教師は、子どもが小さくて弱いのをいいことに、親分をして威張るんです。あれは教師になってからついた癖ではない。「もともと政治家になりたくて、国民相手に威張りたかった人が、それだけの実力がないから、子ども相手に威張る」と、アドラーが言っている。人に教えを垂れたがるんですね。子どもと接する上で、非常に具合の悪い大人の行動の1つが、「教訓を垂れる」ことです。子どもに教えを垂れると、子どもは聞かない。
子どもがどう考えているかを知りたい。子どもがその問題をどう解決したいかを知りたい。子どもは実は答えを知っている。教えなくても知っている。そう信じてください。知っているはずだから、教えるのをやめて、じっくり話を聞くと、自分で気がついて言うはずです。いいですか、教えるのでなく子どもの話を聞くことですよ。
靴を盗むことも、子どもたちのお話を、何か学んでもらおうと思わないで聞いていたら、子どもたち自身にアイデアがあるだろう。いつも解決イメージはわれわれよりも当事者のほうにありそう。もうちょっとお話を聞く姿勢を持たれたらどうでしょうか。(回答・野田俊作先生)