MENU
64,294

スレッドNo.458

目標追求の私利私欲

Q 
 今日のお話の中で、すべての人間の行動は目標追求のためで私利私欲にもとづいている。回心しない限りそこから逃れられないと伺ったように思います。もしその受け止め方が間違っていなければ、回心できていない私は行動を選択するときどうすれば共同体感覚を持った行動がとれるのでしょうか?よろしくお願いいたします。

A
 古典的なアドラー心理学がたどり着いた結論は、「私利私欲である目標追求を持ったままでその行動が共同体にとって有益であることを選べ」、というのがアドラーの言ったことなんですよ。僕が「共存共栄」という言葉を使うのは、いつも譬えに出すのは商売のことで、私の亡くなった祖母は、桐の材木を扱って、外国・中国からとか東北地方からとかから桐を大阪へ持ってきてそれを製材して、箪笥屋さんとか下駄屋さんとかへ卸す問屋さんを連れ合いがやっていたその連れ合いが早く死んで、あと女手ひとつで商売をしていたオバサンなので、いつも私に「大阪商人鑑(あきんどかがみ)」を話してくれていました。東京アドラーギルドでは売っていて大阪アドラーギルドでは売っていない日めくりカレンダーなんですけど。僕がなんであれを大阪で売りたくないかというと、バアチャンの声が聞こえるからなんです。そのバアチャンは「お金もらうお客さんにはええ品物さしあげなあきまへん」とこう言うんです。僕はいつもそう思うんです。皆さん方からお金をいただいているから、そのお金以上に、皆さん方が支払った以上にいいものを差し上げないと、まあお客は続かなくなるしね。「あんな4000円も取られて、つまらん話を聞かされてさっぱりやね」」と言われたら、次から来ませんがね。「ああ、良かったわ。野田さんの話それなりにお金かかるけども、また行こうね」というような話をせんといかんなと、これ私利私欲ね。結局お客来てほしいし、そのお客さんのお金から僕の給料が出、従業員の給料が出、僕のもらった給料からうちの娘の飯も出てくるし、僕の釣り竿も出てくるわけだ。たくさん稼ぎたいわけではないんですよ。お金持ちになりますとまた大変で、税務署との交渉もややこしくなりましょうし、まして不動産の1つも持ちますと、子孫どもが不動産をめぐって争うじゃない。心配もせんといけませんから、そんなに欲しくないけど、まあ娘の晩ご飯と僕の釣り竿くらいはあったほうがいいです。そういう私利私欲でやっている私の活動が、できるだけ世のため人のためになる方向にしよう。もちろん違う方向にだってできるわけで、自分の名誉とか名声のためだけに動くことだって、やろうと思えばできるけど、まあそっち向けにしないで、お客さんが一番喜んでくれる方向にしようと、ただ喜んでもらうだけじゃなくて、お客さんたちがいい暮らし、正しい暮らしをすることで、この世の中がちょっとでも良くなる方向にしよう、アドラー心理学がちょっとでも広まって、子どもたちが「ああそうだ、こんなふうにお話し合いをするんだな」って、「こんなふうに問題を解決するんだな」って学んで、で自分たちが結婚したら夫婦関係でそれを実戦して、自分たちの子どもにもそれを教えて、拡大再生産ができていくといいねと思って仕事をしているけど、なお根源的には私は私利私欲なんですよ。これがアドラー心理学がたどり着いた結論です。
 スピリチュアルなアドラー心理学は、そこをなんとかポイと超えたいんです。その答えはスピリチュアルワークへ行ってちょうだい。言葉で言っちゃうとよくわからんのです。みんなが体験の中で自分で気がついてくれたほうがいい。ある時代にはわれわれが目標追求を落としてしまって暮らすことができた。お釈迦様は目標追求を落とされたみたいです。落としたらどうなったかというと、彼は生きている意味がなくなったんです。それで古いお経を丁寧に読みますと、お悟りが開ける前に、彼はありとあらゆる苦行をやって、苦行では悟らないと思ったので死のうと思ったんです。何やっても悟らんと。どんなことをやっても悟らないから死のうかねと思って、ナイランジャラーという川があるんですけど、その川を渡った。反対側の岸辺の木の根元で呆然としていたら、おねえちゃんが来て、スジャータちゃんというおねえちゃんが来てヨーグルトをくれて、それをついうっかり食べちゃったんです。おねえちゃんからものをもらったりしてはいけないんですよ、清い修行者は。でもどうでもよくなって、「どうでもよい」が大事です、どうでもよくなってつい食ったんです。それで「この世で最後のヨーグルトを食べたし、この世で最後のねえちゃんも見たし、あー死にましょうね」と思って、夜が更けて、朝になると明けの明星が見えて、明けの明星が明るい空にふわっと消えていったとたんに生きるすべての欲が落ちて、悟りが開けたんです。完全に目標追求がなくなったんです。このまま死のうかと思っていると、伝説によれば神様が現れたんです。「それはいけません。あなたは今悟りを開く方法を発見しました。今までとは違うやり方で悟りが開けるやり方がわかりましたから、それを人に教えるべきです」と言われた。彼としては死んでもよかったし、教えてもよかった。教えるのはいわゆる仏の慈悲からではないんです。退屈しのぎなんですよ。だって生きてるわけで、飯食っちゃったから生きてる。生きてたら時間がある。時間があったら何もしなくてもいいけど、何かしてもいいじゃない。聞きたい人が来たら教えてもいい。だから80歳になるまで彼は30いくつから40年以上、お説教を続けるんです。それは僕たちが想像しているような無償の愛じゃないんです。彼の暇つぶしなんですよ。でなかったらそれは悟りじゃないもの。そういう世界もあるだろうと思いますが、それは僕たちには今や遠い。無理。だから別の方法を使わないといけない。そのあたりは可能だと思うけれど、これは大きな文化全体の枠組みの中での次の時代の考え方の実験中なので、スピリチュアルワークに来ていただいたら、うまくいけばそこに乗れるかもしれない。ああそうかって。(回答・野田俊作先生)

引用して返信編集・削除(未編集)

このスレッドに返信

このスレッドへの返信は締め切られています。

ロケットBBS

Page Top