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スレッドNo.460

愛は死語

Q 
 少し混乱しているので教えてください。夫婦が互いに欲のために暮らすことと協力して暮らすことの違いについて。

A
 協力して暮らすのは欲のためですよ。僕たちは結局「愛」は得られない。その「愛」という言葉をアドラー心理学が使わなかったのは、愛は今のままでは絶対に不可能だから。愛というのはもう死語なんです。いや、そもそも初めからなかったんです。僕たちが「愛」という夢を見ていただけで、「欲」に「愛」という名前をつけて、「これは欲とは違うよ」と言っていたんですよ。(浩→そういえば「愛欲」という言葉があります)だからほんとは愛なんかないんです。全然ないんです。今後もないんです。永久にない、いや、あるかもしれないけど、今はない。僕たちにあるのは「共同体感覚」だけなんです。共同体感覚って何かというと、「自分の欲のために共存共栄を図ること」ね。お商売してお客さんに良い品物を差し上げないといけませんと思うことね。だから奥さんがお客さんに良い品物を差し上げないといけませんねと思って、旦那とつきあうことね。旦那がお客さんに良い品物を差し上げないといけませんねと思って奥さんとつきあうことね。そこでアドラーが共同体「感覚」という情緒的な言葉を使ったのは、実はそこで「ある感じ」が生まれるからだと思うわけです。良い人間関係があって良い協力関係ができると、そこに「チーム意識」というか何か深いもの、普通その何か別の意味で「愛」と呼ばれているもの、「濃い仲間意識」ができてくると思うんです。それは夫婦でなくてもできるんです。例えば、登山の仲間、山仲間ってできるんですよ。生死を共にするから。垂直な崖にロープを掛けて登っている人たちがいるじゃないですか。もしも誰かが遭難して死にかかると誰かが助けるんです。みんなお互い同士が命の恩人なんですよ。岩を踏み外してワーッと落ちたとき、上からバーンとロープで支えてくれた人がいて、「君がいなければ僕は今ごろ死んでいた」と、みんながお互いどうし言い合っているから、無茶苦茶強い絆で結ばれるんです。それから戦争の戦友ね。今でもおじいちゃんたちは昔の「何とか連隊」の同窓会をやるじゃないですか。あれ、なんでやるかというと、やっぱり生死を共にして、「あのとき死んでいたのにお互いよく生き残ってきたな」というほんとに協力した体験があるからです。夫婦もそれと同じように、難しいお姑さんに対して、夫婦共同で相談し、いろいろ一致してやっていったとか、子育てで協力したとか、会社をクビにされたけど、2人で何とか生き残ったとかいうような、生死を共にする体験ね、苦楽を共にする体験があると、みんなが思っていたのと違うレベルの信じ合いとかいうものができてくるだろうと思うんです。それがアドラーが共同体感覚と言ったもんなんですよ。でもアドラーが「感覚」の側から話をしたのは間違いだと僕らは思うんです。アドラーがそういう言葉を使ったからしょうがないから使っているけど。だから僕たちは「協力関係を作るんだ。苦楽を共にする協力関係をどうやって作っていくか」、「関係」が先にあってから「感じ」があとからなんです。ディンクメイヤーという人が「愛は良い人間関係の副産物だ」と言いました。先に関係があるんです。憎しみ合ったままでもいいから良い人間関係を作ってくださいと。「私たちは愛がないから結婚生活を続けられません」と言うが、愛は初めからなかったし今後もないです。あなた方が作れるのは愛ではなくて関係です。関係は随意運動です。愛は不随意運動です。不随意運動は僕らの意志の力で作ることはできませんが、関係は随意運動で、旦那が帰ってきたときににこやかに「お帰りなさい」と言う程度です。夫の嫌いな椎茸を無理やり食べさせようとしないことです。そういうことを良い関係と言うんです。良い関係を作るというのは、理解と訓練で、努力で作れることです。それを作っていくと、こちらが良い関係を作り始めると向こうも作ってくれるでしょう。もちろん向こうもアドラー心理学を学んで理解と訓練をしてくれれば、良い関係を作る努力をしてくれるでしょう。そうして良い関係が継続していくと、ものの見方が変わっていって夫婦についての感じ方、毎日の暮らしの実感が変わっていくときが来るでしょう。それを愛と言えるかどうかというのは、それはわからん。何しろ「愛」という言葉が無茶苦茶曖昧に使われているので、何のことかわからないから、それを愛と言えるかどうかわからないけど、それは共同体感覚なんです。共同体感覚というのはそういうふうなもんだと思う。(回答・野田俊作先生)

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