有効な言葉がけ
Q
有効な言葉がけや関係の持ち方はありますか?
A
質問がまずかったですね。言葉のかけ方とか関係の持ち方という考え方は、私は変わらないで相手を変えようという下心がどこかに密かに見えるじゃないですか。むしろ「話の聞き方」とかを聞いてほしいんですよ。家族というのはどんなものかというと、この前「対人関係論」のグルグル回りの絵を描いたでしょう。私と相手がいて、相手が何か言って私が何か言ってグルグル回ってと、認知論者も描くし構築論者も描くんです。どこが違うかというと、認知論者には「芯」があって構築論者には「芯」がない。やっているうちにだんだん芯がないことを発見していったんです。私がいて相手がいて、私から相手に何かを言う。相手から何かを言う。そのとき何か同じところを「芯」があって、コマのようにグルグル回っていると初め思っていたんです。ところが、この話をしているうちに、だんだんこっちへ行く人もあり、あっちへ行く人もあり、違っていくんです。それは、ここの一言で違っていくんです。例えば、「あー医者へ行きたくないなあ」と相手が言って、今度はこっちが「そんなこと言われても家族の生活もあるし、子どもだってそんなに大きくないし」でこっちへ行くんです。「会社行きたくないなあ」「何かあったの?」「いや、別に何もないけど、仕事がうまくいかないしなあ」で、またこっちへ行くんです。それで1時間ほど話すと全然違うことになっているかもしれない。こっちは一家心中しようかという話になり、こっちは頑張って暮らしていこうという話になっているかもしれない。こういうのを家族療法家が見つけたんです。家族療法というのが、今もありますけど、一世を風靡しました。1980年くらい、ちょうど私がアメリカから帰ってきたころには、日本の臨床心理学の世界はアメリカ帰りの家族療法家がいっぱいいまして、で、変なんです、あの人たち、姿が。学会へ行くのに、普通僕らはネクタイ締めてスーツを着て行くんですが、アメリカ帰りの家族療法家はまずアメリカ帰りというのを強調するために短パンかなんかを履いていて、Tシャツかなんか着て背中にドクロマークなんかがついていたりして、椅子へ座ったら足をポンと差し上げて話をしたり、大変アメリカ帰りを強調してみんなに嫌われたんです。彼らはアメリカなりヨーロッパなりヘ行って家族療法を学んできたんだけれど、家族療法家たちは家族というものを1つの生き物と考えるんです。個人は部品なんです。僕らみたいにindividualが主体的に行動しているとあまり思っていなくて、家族がいわば主体的に行動していて、その中で僕らが使われているという捉え方をわりとしていたんですが、じゃあ家族というのはいったい何なんだろうということになり、家族のコミュニケーションをいっぺん観察しないといけない。そうすると、治療に来るのは悪いコミュニケーションをしている家族なんですね。悪いコミュニケーションというのは、誰か毒気を出す人がいるんじゃなくて、売り言葉に買い言葉で悪いコミュニケーションになっているわけです。いったいどこを触ったらコミュニケーションが変わるかと考えて、「そこでこう言わないでこんなふうに言ってみませんか?」と一箇所触ると、うまくいったらガラガラッとシステムが変わって、ガラガラぽんで仲良くなったりするんです、実際に。そこで循環的なやりとりというのを見つけ出したんです。家族の中のreflection循環・反映とかそういうものを見つけ出したんです。われわれもそうだと思うんです。個人の中にあるライフスタイルは変わらないけれどもライフスタイルが家族なり集団の中で暮らし始めると、ライフスタイルのある側面ばっかり刺激されるわけ。いつも奥さんと話をすると、奥さんは将来の心配ばかりするんです。「あなた、世界経済が破綻したって。うちの会社大丈夫かしら?」「大丈夫だよ。日本は安心だ。ドルより強いんだから」「ドルより強くたって輸出できなくなったら難しい」「危なくなったって、病気にならなきゃ大丈夫だよ」「社員の解雇があるんじゃないの?」…とやっているうちに、夫はだんだんムカついてきて怒鳴る。「あんたそんな言い方することはないでしょ。仲良く暮らしたいから言っているのに」「言うこと聞いていると仲良くしたくなくなるよ」と言うわけ。そのとき、私のライフスタイルは変わらないんです。10歳のとき決めたのと同じなんですけど、ライフスタイルの中の「最終的にムカついて怒鳴っちゃう部分」を絶えず刺激してくるわけ。こっちも考えてみたら、向こうが不安になるような材料を絶えず与えている。総合的に分担して悪い方向へ落ち着いている。どっちかの人が答え方をちょっと変えると、違う方へ行くかもしれない。家族療法家たちは家族を観察してそこで、「俺は病気になったから」と言うのをやめて、だいたい助言は「もう少し相手の話を聞いてみませんか」なんです。こっち側の安心材料を向こうに与えようとするんです。「どんなことを心配しているんだい?」と聞いたら違う展開になるかもしれないなあ。そこが家族療法家の無責任なところで、システムは必ず良いところへ安定しようとしているから、変えさえすれば良くなるんだと言う。そこはすごく不安なんです。変えさえすれば一家心中だってあるかもしれないと思うんだけど、何か1箇所変えたいんです。それはそれとして、僕らはもうちょっと家族療法家よりは共同体感覚とか横の関係とかのドグマに凝り固まっているので、良い方向になるかもしれない。家族療法家たちは、アドレリアンは良い家族像を治療者が先に持っているところが許せないと言うんです。僕たちは、横の関係で協力し合える、目標が一致して話し合える家族を作ろうとしている。これがちょっと傲慢だと言う。家族療法家がすべきは何か一箇所コミュニケーションを変えるだけで、そのあとどういう家族かを選んでいくかは家族自身が選んでいくことで、横の関係とか共同体感覚とかいう思想をそこへ持ち込んではいかんと言う。僕らは思想を持ち込まなければ人間は愚かであるから、一家心中するかもしれないと思っているんです。
いずれにせよ、有効な言葉がけ、関係の持ち方というポジションから降りてほしいんです。相手の考えをもうちょっと聞いて。「仕事に行きたくないなあ」「もうちょっと話をして」と。何かできることはないか、私に何ができるかを絶えず考えたい、その中で。「仕事に行きたくない」「辞めたい」と言う夫に対して、あるいは家族に対して会社に対して私にできることは何だろうって、考えながら聞きます。聞いてるとだんだん見えるかもしれない。わかんないけど。要は、どういう言葉がけをするかではなく、どういう「問いかけ」をするかです。(回答・野田俊作先生)