論語でジャーナル
39,子曰く、教え有りて類無し。
先生が言われた。「あるのは教育であって、人間の種類(貴賤の身分)というものはない」。
※浩→人間はすべて平等であり、平等に文化への可能性を持っている。誰でも教育を受ければ偉くなれる。孔子に、人間平等の考えのあったことを示す条として貴重だと、吉川先生は解説されています。日本では封建主義的な身分制度の理論的根拠となった儒学ですが、この部分から、教育によって人間の能力・素質が向上していく可能性を強く信じていた孔子の信念が窺えます。「陽貨篇」の「性は相近し。習えば相遠ざかる」と補い合います。人間の生まれつきの素質はそんなに差があるものではない。生まれたあとの習慣(学習)によって互いに遠く離れるのである。貝塚先生は、デカルトの「良識(ボンサンス)は人間に均等に分配されている」という考え方に類似していると解説されます。そういえば、福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといえへり。されども、今廣く此人間世界を見渡すに、かしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて、其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」も連想します。この「何ぞや」の答えは書名の(『学問のすゝめ』)で、「神様は人間を平等に造ったと言われているけれど、実際には人間には差が出てくるよ。そして、その差になるのが学問だよ」と「学問」を勧めているわけです。孔子は、「習えば相遠ざかる」と言ったあとに、「ただ上知と下愚とは移らず」と追加しています。前の言葉だけでは言い過ぎだと気がついて、これを追加したのでしょう。最上の知者と最下の愚者は学習によって変化しないということで、現実味が出てきました。最上の知者は神様ということで納得できます。問題は、「下愚」で、ソクラテスの「無知の知」の自覚のない人は変わりようがない。これは日常しょっちゅう体験しています。私も、幼稚園から高校まで保護者会などで講演してきましたが、いつも園長先生は校長先生がおっしゃっていました。「先生のお話をほんとに聞いてほしい親は講演会に来ないんですよ」と。T.T高校の「研修会」にも、ほんとに来ればいいのにと思う先生は、来られません。どこも同じです。アドラー心理学ふうに言えば、「ライフタスク」を感じないのでしょう。