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スレッドNo.512

アダルトチルドレン

Q
 以前、先生が「AC=アダルトチルドレンは存在しない」とおっしゃった記憶がありますが、ほんとにACは存在しないと思っていらっしゃいますか?AC、機能不全とかについて先生の見解を教えていただきたい。アドラー心理学と関係ありますか?大人の定義をどのように見られていますか?

A
 ACは存在しない。アドラー心理学と関係ない。ある病気・病名というものについて考えないほうがいい。アドラー心理学は、人間が健康に正常に動くことのできない唯一の理由は、大きすぎる劣等感だと思っている。大きすぎる劣等感というのは何かというと、不可能に高い願いを持っているか、必要以上に低い自分の評価か他人の評価を持っているかから起こるはずでしょう。劣等感というのは理想と現実の差ですから、理想が高すぎるか現実が低すぎるかです。ですから不可能に高すぎる自分には絶対にできそうにないことを自分自身に望んでいると、何かずるいことをしたくなるんです。それから自分を十分好きであって能力があると思ってなくて、人は信頼できないとかみんな仲間じゃないと思っていると、やっぱり変なことをするんです。それがありとあらゆる精神疾患の唯一の原因です。そこをそれ以上細かく区別するのは、単に差別のためしか目的はない。あるいは口実づくり。私はこれこれ病なんだからと、あの人はこれこれ病なんだからという口実づくりのためしか目的はない。そんなものに関わっているのは差別主義者で反治療的で、アドラー心理学の研究者の風上にも置けない。
 依存症も関係ないしACも関係ないし、学習障害も関係ないしADHDも関係ないしアスペルガーも関係ない。関係あるのは、子どもたちが必要以上の劣等感を持たないように、子どもたちと接することなんです。現実的な目標、その子の現実に即した目標を立てるように、その現実的な目標に向かって現実的な手段、目標があったって手段がなかったらダメですよ。私は例えば42キロ走るという目標は、私にとって現実的か現実的でないか?現実的であろうと思います。42キロ走れるべし。今すぐ走れるかというとダメよ。1年後に走ると言ったら、体重減らして毎日毎日トレーニングしたらきっと走れると思う。それは多分妄想的じゃないと思う。42キロを2時間半で走れと言ったら非現実的で絶対無理。どんなことをしても無理。ちょっと休憩入れて5時間欲しい。これだと自分にとって現実的だと思う。でも42キロ走れるようになるそのことを目ざして努力するのは悪いことじゃないでしょう。そういう意味でいつも自分に現実的な目標は立てようと思う。私は論文を書くんですけど、年間3つ論文を書こうと思っていて、年間10と言ったらこれは初めからウソ。そんなに書けるはずはない。大昔年間13書いたことがある。あれなんて中身はない。数を増やしているだけ。ほんとに中身のなるものなら、まあ年間3つかな。年間3つって結構めんどくさいんです。ずっと研究しないといけないから。目標立ててもそれに向かって段階的に努力しないといけない。段階的に努力していけば到達できる目標を立てよう。そのとき「僕ってできないから」とか「能力がないから」というのは口実だと知っている。自分が劣等感に負けて、建設的に現実に向かって進歩しないための口実に、「僕ってダメだもん馬鹿だから」とか「みんながわかってくれないから、手伝ってくれないから」と言い訳をしているにすぎないことは、ちょっと冷静に考えたらわかるじゃないですか。要は「私がするかしないかだけでものが決まる」ので、賢いか賢くないかで決まるわけじゃないです。やればやったとこまでできますし、やらなければどんな理由であっても何もできません。コツコツと努力していくしかしょうがない。お釈迦様も亡くなられるときに、「すべてのものは移りゆく。怠らず努めなさい」とおっしゃいましたから、怠らず努めていれば前へは進むでしょう。そう考えると、いわゆる世間の病名分類というのは、さまざま思うところあって、まあいわば政治的にある動きをするために動こうと思って作られています。一番典型的なのが統合失調症で、統合失調症というのは完全に政治的病名だと思う。その人たちをいわゆるキチガイ扱いをして、社会からある種の差別的な待遇をして、例えば本人の意志に反して精神病院に収容してみたり、薬物投与してみたり、就職差別してみたりするときに、まったく正当な社会的口実になるじゃない。前半言いましたけど、統合失調症の人たちはああやって隔離収容されて暮らさなきゃいけないことは全然ない。確かに一時混乱状態があります。精神的に敏感な人たちですから、ある状態になると混乱されて少し錯乱状態になったりして、確かにそのときは彼らを保護するためにその人たちの精神と肉体を保護するために、入院していただかなきゃならないことはあるかもしれないけど、今はお薬もあるし、そこから治れば十分社会内で処遇できる。できるんですけど家族がイヤがるんです。統合失調症の人が1人家にいると、まあ世間体が悪い。妄想のある人が家に住んでいると世間体が悪い。その人に若干手がかかるということもある。あまりかからないですけど、ほんとはね。おとなしく暮らしていらっしゃいますから。ほんとはかからないけどかかる気がするんです。いつ何があるかわからない。パニックになったら困ると思う。で、家族がイヤがるんです。「先生、できるだけ長いこと入院させておいてくさい」と言うわけです。医療経済としては長いこと入院させるのは大いに結構なことで、精神病院としては急性期の患者さんをたくさん抱え込むよりは、慢性期の患者さんをたくさん抱え込むほうが、まあご飯だけ食べていれば機嫌良くいられるわけですから、診察もそんなにいらないし、良心的な精神病院では主治医1人あたり100人くらいの患者さんを持っているし、ちょっと田舎のほうへ行くと、手が足りなくて主治医1人200か300人持っているというのがざらにある。僕昔、鑑定医をやっていて、入院中の患者さんの精神鑑定で遺産相続なんかして財産管理能力があるかどうかで鑑定しないといけない。田舎の精神病院へ行って、「患者さんに会わせてもらえますか?」「はあはあ、どうぞ」。看護師さんが会わせてくれる。「主治医の意見も一応聞きたい」「主治医ねえ…」としみじみおっしゃる。「お会いできませんか?」「うーん…」院長となら」「院長とで結構です。主治医ダメですか?」「主治医ねえ…」。実は主治医はいないんです。主治医は名義だけいるんです。こんなんあまりよそで言ったらいかんのですけど、法律上精神病院の医者に定員があって、病棟数あたり何人かの医者がいる。でも現実にそれだけの医者をまかなえない。経済的な理由だけでなくて、精神科医の人たちそのものが不足しているから、それでお年寄りでもう働けなくなったような先生の免許証をお貸しするんです。僕も年取ったらあれやろうかなと思う。でいくらかの謝礼を月々雇っていることにして支払いをして、その先生はいっぺんも病院へ登院なさらないんです。けれども名義上の主治医なんです。現実には院長先生が全部の面倒を見ているので、院長先生とお会いして、「○○の患者さんのお話を伺いたい」「あああの患者さんねえ…ああ…」「カルテ見せて」「カルテですかあ?カルテねえ…」。カルテを見たら記載がない。ずーっとめくっていったら、ハンコだけ押してある。週に1回回診したかのように。1行何か書いてあったけど、その患者さんは回診されないんです。それはそうです。回診しなくても何も問題ないんです。その患者さんはその病院で普通に暮らされているわけで、お薬は決まったのを飲まれていて、ご飯食べて作業療法して暮らされていて、医者の世話になる必要はない。別に回診しなくてもいい。保険証の監査があるからハンコだけ押してある。看護記録もハンコをポコッと押してあって、所見なし、便通良、睡眠良と○打ってあるだけです。そんな状態の患者さんは山ほどいる。なんでそんな患者さんがいるかというと、家族が引き取らないからです。家族がなんで引き取らないかというと統合失調症だからです。「あそこの娘さん、統合失調症とかで病院入りはったんやて」と近所で噂になっても誰も不思議がらない。「じゃあもう帰ってきはらへんわね。気の毒にねえ」とか言うんです。帰ってきたら、「帰ってきはった。こわいねえ。あんな人退院させてええんやろか」と言って近所中言う。で、患者さんは居心地が悪くなってまた入院する。だから統合失調症という病名はほとんど政治的病名なんです。と同じようにACも学習障害も政治的病名です。統合失調症ほどひどくないけど、ある人たちがあることの口実のために、「自分の責任じゃないよっ」て「私のせいじゃないよ」って、「これは病気のためだよ、あるいは自分の出身家庭のためだよ、父母のおかげだ遺伝のせいだよ」と、何かのせいにするために、責任逃れのために使っているだけです。医者、医学者のほうはもちろんそんなつもりで病名を作ったのではない。診断をきちんとして治療方針を決めるために病名を作ったけど、こと精神医学に関しては残念ながらその病名はいつも政治的理由のために利用されている。だからアドラー心理学としては一切病名に関わらない。この病気はどうだって解説をしない。アドラー心理学との関係はどうだって考えない。だから「統合失調症者に対するカウンセリングは?とか不登校児に対するカウンセリングは?」というそういう考え方自体が間違っている。われわれのカウンセリングというのは、山田太郎さんに対するカウンセリングとか、中村花子さんに対するカウンセリングなんです。個人が私のところへお見えになるんです。その個人が抱えている生活上の問題のカウンセリングするので、統合失調症を治すとか不登校を治すとかが問題じゃない。そこへ目が行っているということ自体がそれはもうアドラー心理学じゃなくなっているということだと思います。
 大人の定義です。大人というのは「責任を持って生きること」です。極めて単純。

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