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スレッドNo.57

論語でジャーナル

42,師冕(しべん)見(まむ)ゆ。階に及べり。子曰く、階なり。席に及べり。子曰く、席なり。皆坐す。子これに告げて曰く、某(ぼう)は斯(ここ)に在り。某は斯に在り。師冕出(い)ず。子張問いて曰く、師と言うの道か。子曰く、然り。固(もと)より師を相(たす)くるの道なり。

 音楽師の冕(べん)が孔子に謁見した。階段のところに来ると先生が言われた。「ここは階段ですよ」。座席に来ると先生が言われた。「ここは席ですよ」。一同の座席が決まると、先生は冕に、「誰々はここに座っています。誰々はここに座っています」と紹介された。冕が退席すると、子張が質問した。「さっきの先生の言動は、盲目の師に対する礼(作法)ですか」。先生が答えられた。「そうである。これが本当に音楽師を心から助ける場合の作法なのだ」。

※浩→春秋時代の音楽師は、日本の琵琶法師と同じく盲目でした。盲人は聴覚が敏感ですから。日本では箏曲の宮城道雄さんを思い出します。というと、アドラー心理学の「器官劣等性の補償」に関連して度々登場します。孔子は単に人権尊重的な配慮からだけではなく、自分に『詩経』の学問を教えてくれる盲目の音楽師に対して、自らの学問の師に対するような手厚い対応をしたのです。「階」は二階へ登る階段ではありません。古代中国の家はみな平屋で、庭から「堂」つまり座敷へ登るのに階段がありました。日本の寺院建築にその形が残っています。階段は寺院のように真ん中に1つあるのではなく、京都御所の紫宸殿のように、東西に2つありました。西側が賓階、つまりお客用でした。冕師匠はここから登りました。「席」は畳、敷物ですが、今のように座敷全部に敷きつめていなくて、主人や客が座る場所にだけ敷いていました。時代劇を見るとわかります。冕師匠が退出すると、子張がたずねます。「あれが盲人の音楽家と話をされる方法なんでしょうね」。孔子「そうだ、元来ああするのが、盲人の音楽家を補佐する方法なのだ」。何気ないやりとりのようですが、子張が「師と言うの道か」と言った言い方が冷淡な響きを免れないですが、孔子の「師を相(たす)くるの道」は、温かい響きを持っている、と、吉川先生は解説されています。
 歌舞伎の舞台で「御殿」は、真ん中に「階段」がついています。また、遠山の金さんでも、ラストのお白州の場も、上座敷と「白州」という庭をつなぐ階段があります。犯人を追い詰めてシラを着られると、金さんこと遠山金四郎は、片肌脱いで「桜吹雪の入れ墨」を見せて、階段へ長い袴の裾を垂らして、「この遠山桜に見覚えがあろう!」と大見栄を切ります。歌舞伎の名作『義経千本桜』の「川連法眼館(かわつらほうげんやかた)の場」では、この階段の仕掛けが重要な役目を果たします。
 「憲問篇」と「衛霊公篇」と長篇が続きましたが、ここで完結です。長い長い道のりでした。『論語』もいよいよラストスパートに入ります。次回から「季氏篇」に入ります。

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