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スレッドNo.59

論語でジャーナル

1,季氏、将(まさ)に顓臾(せんゆ)を伐(う)たんとす。冉有(ぜんゆう)・季路(きろ)、孔子に見(まみ)えて曰く、季氏、将に顓臾に事あらんとす。孔子曰く、求よ、乃(すなわ)ち爾(なんじ)是れ過てること無きか。それ顓臾は、昔者(むかし)先王以て東蒙(とうもう)の主と為し、且つ邦域の中(うち)に在り。是れ社稷(しゃしょく)の臣なり。何を以てか伐つことを為さんや。冉有曰く、夫子これを欲す。吾二臣は皆欲せざるなり。孔子曰く、求よ、周任(しゅうにん)にあり、曰く、力を陳(の)べて列に就き、能(あた)わざれば止(や)むと。危うくして持せず、顛(くつがえ)って扶(たす)けずんば、則ち将(は)た焉(いずく)んぞ彼(か)の相(しょう)を用いん。且つ爾(なんじ)の言過てり。虎(こ)・兕(じ)、柙(こう)より出で、亀玉(きぎょく)、犢(とく)中に毀(こぼれ)たれば、是れ誰の過ちぞや。冉有曰く、今夫(か)の顓臾は固くして費(ひ)に近し。今取らずんば、後世必ず子孫の憂いと為らん。孔子曰く、求よ、君子は夫(か)のこれを欲すと曰うを舎(お)いて必ずこれが辞を為すことを疾(にく)む。丘(きゅう)は聞けり、国を有(たも)ち家を有つ者は、寡(すく)なきを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患え、貧しきを患えずして安からざるを患うと。蓋(けだ)し均しきときは貧しきこと無く、和すれば寡(すく)なきこと無く、安んずれば傾くこと無し。それ是(か)くの如し、故に遠人(えんじん)服せざるときは則ち文徳を修めて以てこれを来たし、既にこれを来たすときは則ちこれを安んず。今、由と求とは夫子を相(たす)けて、遠人服せざれども来たすこと能わず、邦(くに)分崩離析(ぶんぽうりせき)すれども守ること能わず、而して、干戈(かんか)を邦内に動かさんことを謀(はか)る。吾恐る、季孫(きそん)の憂いは顓臾に在らずして蕭牆(しょうしょう)の内に在らんことを。

 魯の家老・季氏が顓臾(山東省の小城)を征伐しようとした。冉有(ぜんゆう)と季路(きろ)とが孔子にお目にかかって申し上げた。「季氏が顓臾に攻撃を仕掛けようとしています」。孔子が言われた。「冉有よ、それはお前の過ちではないか。顓臾という国は、昔、先祖の国王が東蒙の山神の祭主と決められて、魯国の領域内にある。属国としてれっきとした譜代の家臣であるのに、何の理由があって征伐するのだ」。冉有が言った。「かの方(季康子)が討伐を欲せられたのですが、私たち二人は討伐を望んではいません」。孔子が言われた。「冉有よ、大史の祖である周任の言葉に、『力の限りを尽くして任務に当たり、力が及ばない時には辞退する」というものがある。主君の危難を見て支えず、主君が倒れても助けないというのでは、どこに宰相の役目があろうか。お前の言葉はさらに間違っている。虎と兕(じ=野牛に似た一角の獣)の猛獣が檻から逃げ出して、大切な亀の甲と玉の宝石が箱の中で壊れたとしたら、それは誰の責任か?それと同じことではないのか」。
 冉有が申し上げた。「かの顓臾の国は難攻不落で季氏の持つ費の城に近い場所にあります。今この機会に顓臾を攻め滅ぼしておかないと、後世になって子孫の苦悩となるでしょう」。孔子が言われた。「冉有よ、君子は正直に『欲しい』と言わないで、別の理由を考え出すような、虚偽の人間を嫌うものだよ。私の聞くところでは『国を保ち家を保つものは、人民の貧困を心配せず、不平等であることを心配する。人民の少ないことを心配しないで、人民が安定しないことを心配する』という言葉ある。平等であれば貧しいことはなくなり、和合していれば人口の少なさは気にならなくなり、人心が安定していれば危険はなくなるのである。こういう次第だから、遠国が服従しない場合には、文化的な外交政策でなつかせて来朝(朝貢)させるのである。遠国が来朝して交友が深まれば安定する。今、子路と冉有は、季氏様の補佐をしているのに、遠国が服従せず、さらになつかせて来朝させることもできない。それに国家(魯)が分裂分解しているのに、これを防ぐこともできない。その上、国内において軍隊を動かそうとまでしている。私が密かに恐れているのは、季氏の危険は、遠くの顓臾ではなく、身近な門内にあるのではないかということなのだ」。

※浩→いきなり長文です。『論語』最長の文は、「先進篇」に315字(白文で)がありました。ここはそれに次いで第二位です。274字あります。
 「顓臾(せんゆ)」は、山東省の小城で、領主は代々、魯の保護国として魯に帰属していた。魯の家老筆頭の季氏は、すでに広大な地域を魯国内に所有していたが、さらに野望をたくましくして、武力で顓臾を伐ち併合して自分の領地としようとしました。このことを、季氏の家臣となっていた冉有と子路が孔子に報告に来て、孔子から厳しく叱られています。この出来事がいつのことかは怪しいそうです。子路が季氏の家臣となったのは前498年で、冉有が季氏の家臣となったのは前484年ですから、この事件のときに両者がともに孔子を訪問することはありえないそうです。本文ラストの、「季氏の危険は、遠くの顓臾ではなく、身近な門内にある」は、前502年に季氏の家臣・陽虎が下剋上をして季氏を軟禁した事件があり、冉有と子路が季氏の家臣となったのは、それよりのちの時代のことで、そう言われています。孔子のここでの弁論は、戦国時代に潤色されて現代に至っているという説が有力のようです。
 これだけ長い本文と現代語訳と解説がある上に、さらに私のコメント入れることは憚られます。よって、省略ということに。

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