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スレッドNo.65

論語でジャーナル

4,孔子曰く、益者(えきしゃ)三友。損者三友。直きを友とし、諒(まこと)を友とし、多聞(たぶん)を友とするは、益なり。便辟(べんへき)を友とし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは損なり。

 孔先生が言われた。「ためになる三種の友人、損になる三種の友人。正直な人を友とし、誠実な人を友とし、博学な人を友とするのはためになる。見かけだけが良い人を友とし、人当たりが良いだけ(あるいは、難しいこと・イヤなことを避ける便宜主義者)の人を友とし、口先のうまい人を友とするのは損である」。

※浩→「益友」「損友」という言葉は今でも使われると、貝塚先生はおっしゃっていましたが、私は使ったことはありません。無学でした。ここのような孔子の言葉がどうしてできかたを、貝塚先生は次のように解説されます。
 孔子の学園で、孔子の言葉が次第に教条化され(浩→これは“土着化”と言ってもいいかもしれません)。教訓を箇条書きにして暗記する学習法がとられてきたあらわれである。孔子と弟子たちとの人格的な接触から生まれる会話の生き生きとした味はなくなってくる。
 師弟の人格的接触による学びというと、プラトンの「アカデメイア」を連想します。あそこでも、教師が生徒たちに一方的に講義する教育法ではなく、互いの対話による「問答法(対話法)」が用いられていました。アドラー心理学においても、親や教師からの1度や2度の「言葉がけ」で子どもを“操作”するのではなく、繰り返し“問いかける”ことで次第に両者ともの納得できる解決を導き出すという方法が提唱されています。
 幸いにして私は子どものころから「良い友」には恵まれてきました。小学校から中学校までは、広瀬のやっちゃん(広瀬康久さん=中学生のころすでに映画ツウで、東映時代劇などを筆者に紹介してくれました。彼の家はリッチで、母親どうしも親しくて、そのご縁でよくお泊まりさせていただいていました。高校を出てからは次第に遠のき、今では消息不明です。ご存命かどうかもわかりません)。中学から高校では、池田秀彦君(高校卒業後は岡山から宝塚市へ転居されて、お泊まりに行ったこともたびたびでしたが、やがて遠ざかりました)。中学では吉原正明さん(京都学芸(教育)大学へ進まれ、私は岡大ボート部で琵琶湖に遠征に行った帰りにはよく彼の下宿に泊めてもらいました。妙心寺の隣にありました)、岡村鉄夫さん(九州出身で中学から岡山に下宿されていて、よく泊まり込んで一緒に勉強していました。彼の家もリッチで、当時から熟へも行っていました)。高校での近間章さん(演劇部で一緒になり、おうちが富田町なので、帰宅時によく寄せてもらっておしゃべりをしていました)。大学では何と言っても行司伸吾君(ボート部の仲間。卒業前は彼の家に下宿させていただいていました)……。
 友を選ぶと言えば、ボート部のコンパでの愛唱歌に、与謝野鉄幹の「人を恋うるの歌」というのがありました。歌詞を完全に暗記して合唱した歌の1つです。久しぶりに思い出しました。↓

 妻をめとらば才たけて みめうるわしく情(なさけ)ある 友をえらばば書を読みて 六分(りくぶ)の侠気(きょうき) 四分の熱

 恋のいのちをたずぬれば 名を惜しむかな男(お)の子ゆえ 友の情をたずぬれば 義のあるところ火をも踏む

 あーわれダンテの奇才(きさい)なく バイロン ハイネの熱なきも 石をいだきて野にうたう 芭蕉(ばしょう)のさびをよろこばん

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