デカルトパラダイムと絶対的全体論
Q
相対的マイナスから相対的プラスへ向かう動き、個人の生物学的な目標は「種の保存と個体保存」であるというのは、古典アドラー心理学によるライフスタイルの説明ということになるでしょうか?(そうですね。どっかにあったね。)デカルトパラダイム、相対的全体論からできているものなのだと思います。絶対的全体論による新しいアドラー心理学から出てくる新しいライフスタイル論というのはあるのでしょうか?質問していて自分でもよくわかっていません。
A
デカルトは世界の方向性とか意志とかそんなものを一切考えなかったんです。デカルトの世界というのは「機械」ですから。時計に何か目的はあるか?時計に目的はないんです。近代科学は目的論の否定から出てきたんです。アリストテレスの中世の哲学は、物理学を大変目的論的に考えたんです。例えば、石はなぜ落ちるかというと、石は本来生まれた場所へ帰りたいからだって、アリストテレスが言ったんです。運動法則ですら目的論的に考えました。それをデカルトが否定したんです。だから原因論というのは中性的目的論の否定なんです。原因論というのはつまり世界にも目標はないし、個人にも目標はないという議論です。個人の行動というのは、例えばフロイトによれば、内的な欲望と理性との葛藤からたまたま出てくる結果にすぎなくて、その結果個人は何を成し遂げようとしているのかというと、さしあたっての「欲求不満の解消だけ」じゃないですか。絶えず欲求不満が起こってはそれを解消し、欲求不満が起こっては解消しというモデルしか持ってなかったんです。こうやって人生を長いスケールで見て目的論的に考えるのは、絶対にデカルトパラダイムからは出てこないんです。デカルトの言い方だと、一応道徳は可能そうに見えるんです。何かの道徳基準がどこかから与えられる。どっから来るかはわからないんです。デカルト自身はまだキリスト教が生きていた時代の人でしたから、聖書の中に道徳があって、それは科学の立ち入るべき領域じゃなくて、それが欲求と社会との間の自我の行動指針になっていたんですけど、聖書から来る道徳がなくなっちゃって、それで理性でもって道徳を作り直したんです。それがいわゆる「モダン」なんです。理性で作り直した道徳のことを、ニーチェが「畜群道徳」と言うんです。民主主義とか自由主義とかいうのが結局、人間が身を寄せ合って卑怯に、ほんとに誠実じゃなくて、自分の願望のために生きていく畜群道徳だと非難するんです。じゃあ、ニーチェは何をするかというと、ニーチェは結局、道徳を破壊しただけで、それ以上何もしないで死んでくれたんです。ここが僕らの抱えている問題なんです。アドラーの言う「共同体感覚」はいかにもニーチェなんです、思想的には。理論でこんなこと言っておいてから共同体感覚というのは、どう考えたって矛盾しているんですよ。アドラー自身の論理だけだとね。だから、われわれが問題にしているわけです、はい。質問は、デカルトパラダイム、相対的全体論が出てきているというのは違うんです。デカルトパラダイムは出てこないんです。絶対的全体論からの新しいアドラー心理学でライフスタイル論はすでにニーチェの段階で、ポストモダンの段階でと言ってもいいんですけど、ニーチェの思想が100年くらいしてわりと新しい形で再評価されて、いわゆるポストモダン運動になっていったと思うんです。その段階で、複数のライフスタイルとかライフスタイルというものが固定しているんじゃないとかいう議論をたくさんの学者がしました。そのあと、今のベイトソンになると、ライフスタイルそのものについて議論するのはあまり意味がない気がするんです。ライフスタイルは、大きなものをもっとみんなが認識するようになれば、そんなに僕たちの障害にならないから、行動を変化させるためのね。まだよくわかんないですけど。