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スレッドNo.659

デカルト、ベイトソン、アドラーとポストモダンの位置関係

Q
 質問! デカルト、ニーチェ、ベイトソンと来ました。デカルト、フロイトがモダンな機械的科学主義だとわかりました。じゃあベイトソンは非近代、近代の次、超近代、それならモダンを超えてじゃないの?ポストモダンを超えてなら(ポストモダンはニーチェです)、デカルト、ベイトソン、アドラーとポストモダンの位置関係を教えてください。

A
 ポストモダンだと言っている人たち、デリダだとかさ、その他その他がみんなニーチェを読んでいるんですよ。ニーチェという思想家はこの百何十年間みんなに読まれてきたんです。アドラーなんかはニーチェの読者の最初の人たちだと思うんですけど、みんな違う読み取りをずーっとしててね、違うふうに、でもなんとなくこのごろ統一されてきたと思う、ニーチェの言っていたことが。それでニーチェの言っていたことは、結局、多様性。作りつけの一切の価値を否定して、キリスト教的な価値も資本主義的な価値も既成の道徳観念も、何もかも全部否定しておいて、その上で「生への意志」の選択の多様性をボーンと打ち出したんです。けれども、その「生への意志」の選択の多様性を打ち出したツアラツゥストラはもの凄い善意の人で、もの凄い誠実な人で、だからニーチェはツアラツゥストラの物語を書けたけど、僕らはあんなに善意の人じゃないし、あんなに誠実じゃないんです。脳は梅毒でしびれてないですから。だからニーチェの思想をそのまま現在の世界へ持ってくると、たぶんそこからは明るい未来が出てこないと思う。梅崎(一郎)さんが去年の(総会の)理論分科会で、ポストモダンの彼なりのまとめをしてくれたけど、凄い悲観的な結論へ持っていくんです、彼自身が。僕はねえ、ポストモダンそのものから楽観的な結論が出てくるとはあまり思えないです。というのは、ポストモダンにはベイトソンが持っているような世界のシステムとしての“生命性”というか、世界全体がある方向性を持っているというような思想がないからね。ベイトソンは「ポストモダンを超えて」だと私は思っているんですけど、残念ながらベイトソンはそんなに大思想家じゃないと思う。デカルトとかニーチェがエポックメイキングの大思想家だったのに比べて、ベイトソンはそんなにもの凄い大ものじゃなかろうと思うんです。たまたま人類学という実践の現場でとても先駆的にいろんなことを発見しただけで、それがモノになるのにもう二世代三世代かかって、そのころにどっかの国に誰か凄い偉い人が現れて、それでニーチェを読んだりベイトソンを読んだりあれ読んだりこれ読んだりして、ドーンと花火が上がるんでしょう。上がったら、「玉屋ー、鍵屋ー、中村屋ー!」って言おうと思ってるんですけど、私ではないんです、それは残念ながら、もちろん。予感的に、次の時代がこっちへ行くのかなあというのが思えるだけで、そこに整合的にパチっと論理的にスパーっと割り切った論理がまだ立ってないと思う。ベイトソンが断片をいっぱい集めて、洗者ヨハネがキリストの来るのを預言したように、ただ兆しを教えてくれただけだと思うんです。それでも凄いことだと思うけど。

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