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スレッドNo.667

全体論

Q 
 デカルトやフロイトが要素論だとわかる。では全体論。「まず全体世界がある」のうち、相対的全体論と絶対的全体論の移動は?アドラーやニーチェやベイトソンの思想はそれぞれどのような全体論なのでしょうか?

A
 アドラーとニーチェは相対的と僕が言っているのは、「個人の中に葛藤はない」という意味ね。絶対的と言っているのは、「世界の中に葛藤はない」という意味ね。アドラーはユダヤ人ですから、「人生は試練だ」と思った人なんです。それはそうですわ。ユダヤ人に生まれたら絶対にそうだもの。生まれた瞬間から異邦人なんです、世界中のどこにいても。今はイスラエルがあるけど、イスラエルだってやっぱり異邦人ですからね。さまざまな迫害があるんです。迫害の中でユダヤ人が日本人と違うところは、いつでもユダヤ人をやめられるんです。ユダヤ教徒であることがユダヤ人の定義です。ユダヤ教徒をやめた途端にユダヤ人ではなくなるんです。それをみんな決心してユダヤ教徒でいるんです。ユダヤ教徒というのは、「律法」というのがあって律法を守って生きなきゃいけないんです。律法で一番厄介なのが土曜日が休日なんです。土曜日が休日だと、週休1日半制だと土曜日に学校へ行けないんです。ユダヤ人の子どもは土曜は学校へ行かないんです。それでアメリカは早くから週休二日制になったんだと思う。宗教問題で。イスラム教徒は金曜の晩、礼拝なんです。晩なのであれは行けるんですけど、ユダヤ教徒は土曜日の間に外出してはいけないんです。それから食べ物の制限があるんです。コッシャーといってユダヤ教徒が調理した品物しか食べちゃいけないんです。アメリカのスーパーマーケットなんか行くと、コッシャーのマークがあって、チキンラーメンとか味の素とかキッコーマンとかに貼ってあるんです。キッコーマンのサンフランシスコの工場は、ちゃんとユダヤ教徒を雇ってその人たちにユダヤ人向けのキッコーマンを作ってもらっているんです。ユダヤ教の教師・ラビがちゃんと年に1回視察に来て、確かにユダヤ教徒が作っているかどうか調べるんです。あれも不便な話です。それでもユダヤ教徒でいようと、ずっと決心しながら生きていくわけです。そしたら人生は試練よ。世界と私とはずっと葛藤していることになりますが、それは1つのものの見方だと思うの。そうじゃないものの見方をしたっていいわけです。アドラー心理学はこの世界の真理について言っているわけじゃないから、アドラー心理学そのものが“かのように”心理学で、「こういうふうなものの見方を仮にしてみよう」と言っているだけだから、そしたら絶対的全体論でもかまわないんです。で、絶対的全体論でアドラー心理学を見直してみることにしました。それはベイトソンの影響です。

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