スピリチュアルと共同体感覚(2)
A
問うてもいいのは蛋白質とか核酸とか酵素とかそういうものについては問うてもいいけど、「生命は電子顕微鏡で見えないし、試験管の中にも取り出せません。いけません、ペケ!」と、質問そのものを却下されるんです。あるいは精神医学をやったら、「精神って何ですか?」と訊くじゃないですか。「それはまあ腎臓の排泄物が尿であるように、肝臓の分泌物が胆汁であるように、脳の排泄物が精神だ」と、こう言うんですよ。脳という臓器があってそこから分泌されるものだと、こう言うんです。完全に尿とおんなじ扱い、唾液とおんなじ扱いなんです。デカルト・パラダイムからはそういう結論しか出てこないんです、結局。考え詰めれば、精神とか生命とかを物質と独立に立てると、非科学的になっちゃうんですね。出てこないんだけど、実は違うんだと。細胞一個一個が精神を持っていて、分子一個一個が生命を持っていると考えたってかまわないじゃないか。だって、それらの組み立てから出てくるかも、精神が。地球全体が生命だと言うときに、それはそうだと思う。地球全体が生命活動を営んでいるんだけど、多くの人がそう言ったときに森とか動物のことを考えるんだけど、森を支えている大地は生きているのか死んでいるのか。生きていなきゃ。死んでる土地からは木は生えない。土地は土はあれは砂じゃないんです。砂が長いことかかって土になったんです。生きているからそこから生えるわけね。では土になる前の砂は死んでいるのか?そんなことはない。その砂の上で生命が始まるわけだから、砂も生きる材料なんです。それはちょうど僕らの爪とか骨とかはそれ自体としては生きていないけど、僕たちの生命活動の一部でしょう。同じように砂とか水とかいうのも生命の一部なんです。そう考えると、何もかもデカルト・パラダイムに凝り固まって分子に還元する必要なんか全然ない。そういうふうに考えて、それで僕らの毎日の生活はいったいどうなっていくのかしら?今みたいに世界征服をもくろんで、人間の都合のいいように世界を作り替えて、夏は涼しく冬は暖かく、速い速度で移動して、大量の物資を世界あちこちやりとりして、ブラジル製の鶏の肉とかトンガ王国製のカボチャとかを食って暮らすのが、ほんとに世界のためになるのかしら?お金のためにはなる。経済というのも、資本主義経済というのもデカルト・パラダイムの産物ですから、お金のためにはなるけど、お金が儲かって物質的に豊かな暮らしから抜けようと思っているんです。お金が儲かって物質的に豊かな暮らしそのものがデカルトふうの、物と心とを分離してできてきた結果だから。昔風の言葉で言うと、分相応のというか、少欲知足というか、自給自足のというか、グローバルの反対のローカルのというか、プラネタリーという言葉をスピリチュアリティーの人たちはよく使います。グローバル、グローバリティーの反対、「生きた生命としての地球的生き方」を、長いことかかってこれから探すと思うんです。カッシーラだったか、西洋の哲学者が「思想の転換はちょうど世紀の真ん中へんで起こる」と言うんです、過去何百年かの思想史を見ると。だから、思想の転換が1050年ごろに起こるわけだ。私は1948年に生まれたから2050年まで生きていたら102歳で、まあ死んでるかボケてるかどっちかですから、新しい天才が新しいヴィジョンを出すのを見られないと思いますが、皆さん方は、若い人たちは見られるかもしれない。だから新しいヴィジョンが出てくると思います。今、思想家や哲学者たちは真っ黒けの中。ポストモダンという真っ黒な思想の中で模索していると思うの。先が見えなくなって、過去はダメだけわかって、次は何かがまったくわからないで、とにかくこの資本主義とか自由主義とか近代科学とかをこのまま進めるわけにはいかないけど、じゃあどうするのかがなんにもわからない状況の中にいて、暗いでしょう。明るくなるでしょう、もう50年もすれば。それまで地球が保てばね。だから明るくなる時代に向けて、それを子どもたちが受け入れるように育てたいんです、準備したいんです、いつも。