歩くことは瞑想になるか?
Q
歩くことは瞑想になるでしょうか?私は1日に1時間以上歩くことにしています。
A
あるんですけど、「○○は瞑想になるでしょうか?」とういう質問には気をつけたほうがいいです。「歩くことは瞑想になるでしょうか?」とか「走ることは瞑想になるでしょうか?」とか、「3B体操は瞑想になるでしょうか?」とか「太極拳は瞑想になるでしょうか?」とかは、要するに瞑想したくないんだ。ちゃんとした瞑想をしたくない言い訳にこれを言っているんだ、たぶん。だから、なりますけど、自分が言い訳に言っていないかどうかチェックしてほしいんです。瞑想して暮らすというのは、生活全部を変えていく決心だと思うんです。日本ふうに言うと、道元禅師という人が「行持綿密」と言いました。「食べることとか歩くこととか、排泄することとか眠ることとか風呂に入ることとか、あらゆることを瞑想にしなさい」って。一日中全部に目覚めて暮らしなさい。どれひとつおろそかにせずに丁寧に丁寧に丁寧に暮らしなさいということ。それが瞑想する人の目標なんですよ。マインドにライフスタイルに習慣にコンディショニングに任せて機械的に生きないこと。毎日毎日奇跡が起こっているんです、この世は。道を歩いていて、ほんとに毎日奇跡が起こっているんです、たくさんの。でもみんな何にも見えないんですよ。自分のマインドだけ見ているから。今桜が咲いて、そして散っているんですが、これは奇跡だと思いませんか?桜が咲くんですよ、あなた。世界中で、桜がソメイヨシノがあんなにたくさん生えていて、それがある季節になると咲いて一斉に散っていく場所って、そんなにないんです。私はそこを歩いているんですよ。しかも今年は寒くて、花が長くて、長く咲いた花が一斉に散るんです。これはほんとにミラクルだと思わない?それが見えるか見えないかは、そのことに目覚めているかどうかに関わるわけじゃない。「ああ、それは咲くわね、散るわね、そんなもの当たり前じゃないですか。だって春だもん」と言ったとたんに何も見えなくなる、起こってることが。究極的な目標はそこなんです。だから、「歩くことは瞑想になりますか?」というのは、それはそうなんですけど、どうもこの人は、そうじゃないことをやりたくないんですよ。何かその昔から瞑想と言われていることをやりたくない、あんなもののために時間を使いたくない、だからついでに「お皿洗うことは瞑想になりますか?」とか、ついでに「掃除することは瞑想になりますか?」とか訊きたいんです。道元禅師がそんな馬鹿者のために「洗浄の巻」という「おトイレ作法」についてのお教えを書かれていました。たまげるんですが、まず前半は「野ぐその巻」。雲水さんで旅をするのが本来の姿ですから、野原で排泄をするときにどういうふうにすればいいか、天地に感謝しながら排泄する方法を書いてあって、後半はお寺で排泄する方法ね。そんなものまで瞑想にはなりますね。毎日トイレに行きますから、トイレは良い瞑想になりますけど、そんな覚悟はないんだ。全部をほんとに祝福して目覚めて瞑想して暮らすという覚悟があれば、この質問をしないもん。何の覚悟がないかといったら、昔から定められている「何とか瞑想」を1時間やる覚悟がないんだ。この覚悟がない人は、歩くことは瞑想にならないんだ。ほんとはなるけどならないんだ。値切ったら値切っただけのものしか来ないんです。安いものを買ったら安いものしか来ないんです。僕の友だちに「とりあえず主義者」がいるんです。山へ行くとき、山の道具を買わないといけないとき、彼はとりあえず安いものを買うんです。あれ絶対ダメです。安いものを買ったらすぐダメになるんです。初めからうんと高いものを買っておいたほうがいいんですよ。やっぱりお金をかけたものは違うんだもの。だから何でも「これで済ませよう」というのは、すぐにほころびが来て使えなくなりますから、そんなこと言わないでちゃんと瞑想なさったほうがいいと思う。