野田先生の補正項から
思想的な見晴らし
2001年01月30日(火)
石垣島へ来ているが、ここへ来るまでの飛行機の中で、大嶋浩他著『絵でわかる現代思想』(日本実業出版社)というアンチョコ本を読んでいた。
・反・自然科学としての二十世紀の哲学の開始:ニーチェ・ベルグソン・ディルタイ・ガダマー
・現象学(意識の厳密学)から実存主義(実践の倫理学)へ:フッサール・ハイデガー・サルトル・メルロ=ポンティ
・論理実証主義による言語論的転回:マッハ・フレーゲ・ラッセル・ヴィトゲンシュタイン・カルナップ
・プラグマティズムと日常言語派:パース・ジェームズ・デューイ・ヴィトゲンシュタイン(後期)・オースティン・クーン
・マルクス主義の展開:マルクス・ホルクハイマー・アドルノ・ハーバーマス・アルチュセール
・精神分析学の誕生と展開:フロイト・ユング・ラカン・ベートソン
・構造主義とその展開:ソシュール・イェルレムスウ・バンヴェニスト・グレマス・ヤコブソン・レヴィ=ストロース・バルト・クリスティヴァ
・ポスト構造主義:バシュラール・フーコー・リオタール・デリダ・ドゥルーズ=ガタリ
・オートポイエーシスと現代社会学:ベルタランフィ・ブリゴジン・ヴァレラ・ベンヤミン・セール・ボードリヤール・ブルデュー
これだけを200ページあまりで、しかもその三分の一くらいは イラストで、書こうというのだから、まあ、中身はあまり期待しないほうがいいかもしれない。そのことよりも、そもそもこういう本が一般向けに出ているというところが、日本のいいところじゃないかと思うのだ。
アメリカにいたとき、ピアジェやラカンなど、フランス系の心理学者や精神医学者が知られていないことに驚いた。一般の人が知らないのは仕方がないとして、専門の心理学者や精神医学者も、彼らの仕事をよく知らない。本屋に行って探せば、ラカンはともかく、ピアジェは英訳本があったので、翻訳の問題ではないようだ。それよりも、アメリカ人がフランスに対して劣等感を持っていないことが問題のように思われる。ドイツについては、ビンスワンガーは翻訳もあったし、精神医学者の間ではそれなりに知られていたが、テレンバッハは翻訳もないようだし知られていなかった。事情はフランスよりはいくらかましな感じであったが、それはドイツ系の精神科医が多いからであろう。やはり、ドイツに対しても劣等感は持っていないようである。
日本人は、西欧世界、特にフランスとドイツに対して強い劣等感を持っているし、アメリカやイギリスに対しても劣等感を持っていないわけではない。それで、翻訳も系統的に行われているし、大学でも外書購読を中心としたゼミナールがある。その結果、日本にいると、西洋思想の見晴らしがいい。専門書はともかくとして、質のいい入門書でもって、広く浅く見渡せるのだ。
では、東洋思想はどうかというと、どうもアメリカにいるほうが見晴らしがいいように思う。『中国思想ソースブック』だの『インド思想ソースブック』だのが揃っているし、概説書も、例えば仏教について言うなら、南伝仏教も中国仏教もチベット仏教も等距離に見て書いてくれるので、とてもわかりやすい。
もちろん、専門書を読むとか、専門的に研究するとかいうことになれば、西洋思想についてはアメリカのほうが、東洋思想については日本のほうが便利であることは当然だ。だが、専門外の分野の鳥瞰図ということになると、この逆なのだ。
地震の楽しみ方
2001年02月06日(火)
フロイト派やユング派の心理療法では、クライエントの発言を解釈して「内面」を推量する。しかし、家族療法や短期療法やエリクソン催眠などの積極的心理療法(Active Psyhotherapy)では、クライエントの発言を解釈することはしない。クライエントの「内面」があるとしても、それはカウンセラーの操作の結果できたもので、それ以前の内面とは違っている。だから、研究対象になるのは、カウンセラーの操作のほうであって、クライエントの内面のほうではない。アドラー心理学も最近はその方向に傾いている。
フロイトやユングは、素朴実在論的なんだ。観察以前に「心」が存在していて、観察されることでもっては変化しないし、その中には法則が潜んでいて、それが発見される、というわけだ。積極的心理療法は、そうは考えない。観察される前にも「心」は存在するだろうが、それがどんなものであったかはわからない。観察されることで心は絶えず変化する。あるとき「洞察」によってカタストロフィックに変化するのではなくて、観察者の操作によって連続的に変化し続ける。したがって、観察者によって違う心が見える。観察が終わった時点で、心には観察された「後遺症」が残っていて、観察者と出会う前の心とは違っている。それが治療である。
心理療法に関しては、「観察」というのは、主に「問いかけ」のことだ。もちろん「語りかけ」でもいいのだが、「問いかけ」のほうがスマートだと思われている。語りかけは抵抗に遭いやすいし、いかにも説得ないし洗脳っぽくなるし、とにかく、かっこよくないんだ。
さて、先日、沖縄で講演したときに、「神戸の地震のあと、本当は『心の傷』などなかったのに、心理学者とマスコミがキャンペーンしたものだから、『心の傷』ができた」という話をした。これも、上の理論の1つの展開で、コミュニケーションと無関係に心はありえないので、したがって心の傷もコミュニケーションと無関係にはありえない。仮に、地震の被害者が「私には心の傷がある」と訴えても、周囲の人が相手にしなければ、それは消去されると思う。周囲の人がそれを深刻に受け止めて応答するから、心の傷はますます大きくなるのだと思う。逆に、もし被害者が、「心の傷なんかない」と言ったとして、周囲の人が「いや、あるはずだ」と言い続ければ、やがて心の傷ができるかもしれない。ともかく、素朴実在論的に、コミュニケーションと無関係に心なり心の傷なりを考えることはできないのだ。
ところが、聴衆の中に、おそらく実在論的心理療法を学んだ人だと思うが、「でも、両親をなくした子どもに心に傷がなかったはずはないでしょう」と主張する人がいて、いくら説明してもわかってもらえなかった。たかだか、「いいカウンセリングでもって癒すことはできますが」と認めてくれる程度だった。でも、もしいいカウンセリングで「癒す」ことができるとすれば、それまでには悪いカウンセリングで「傷つけられて」いたことに、論理的にはなるのだが。じゃあ、誰だい、悪いカウンセリングをして傷つけたのは?
心理的な面に限って言うなら、地震の被害よりも、心理学の被害とマスコミの被害のほうが、神戸では圧倒的に大きかったかもしれない。きわめて反治療的なコミュニケーションを作り出して、被害者の心を悪いほうに操作したのだから。
山陰で地震があって、いくらかの被害があった。その1月ほどのち、その地方の友人と会う機会があって、「楽しんだ?」と尋ねた。「楽しんだと聞かれたのは、はじめてだ」とその人は笑っていた。生き残ったのだから、楽しまなくてはね。「大変だった?」と問いかければ、その人は大変だったことを報告するだろうし、「楽しかった?」と問いかければ、楽しかったことを探すだろう。神戸でも、子どもたちに、「面白かった?」と言ってみればよかったんだ。勇気がいるけれどね。