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スレッドNo.701

野田先生の補正項より

武道は人間を暴力的にするか
2001年02月15日(木)

 臨床心理学は、20世紀の間、「性」と「暴力」という2つの問題のまわりをうろうろしていた。「食」だって「仕事」だって「老化」だって問題ではあったのだが、それらよりも「性」と「暴力」について、はるかに多くの研究があると思う。これには2つの要因があるだろう。1つは、臨床心理学の黎明期に、フロイトが「性」と「暴力」を極端に強調したことだ。微分方程式の初期値みたいなもので、後々まで影響が残ったのだ。
 もう1つは、20世紀の文明がもてあました問題だったことだ。「性」は、例えば江戸時代の日本だったら、それほど問題にしなくてもすんだかもしれない。性に関して、今よりうんと大らかだったからね。性に対して抑圧的なキリスト教文明が、性の問題をこじれさせている。「暴力」も、戦国時代だったら、問題ではなかったかもしれない。それどころか、当時は、粗暴であることは、社会適応の1つの条件ですらあったかもしれない。
 性については、昨日すこし書いたので、今日は暴力のことを書いてみる。どうすれば暴力的でない子どもを育てることができるか。それは、「制御された暴力」すなわち武道を習わせることだと思う。空手とか柔道とか合気道とか。ある程度強くなると、暴力を乱用することが少なくなると思う。「暴力はいけません」と、非武装中立論に凝り固まって教育するよりも、はるかに効果的だろう。
 いまだに非武装中立論に凝り固まっている左翼政党があるものだから、国が非武装なら個人も非武装でなければならず、武道を習わせるなんて右翼だと言う人もいる。国のことはさておき、個人の非武装中立については、昔、少林寺拳法の創始者の宗道臣氏が、「女性を連れて歩いていて、突然暴漢が襲ってきたとき、君は非暴力で、女性が乱暴されるのを黙って見ているのか?」と言うのを聞いて悟るところがあった。自分を守るためには、暴力よりも、逃げるとか、謝るとか、あるいは何発か殴られるとかいった、いくつか別の案があるし、どれも暴力をふるい返すよりはいいアイデアであることが多い。しかし、他人を守るためには、暴力しか解決法がなくて、暴力を使うしか仕方がないときもあるかもしれない。
 それで、実際に合気道を習い始めたのだが、習ってみると、別のこともわかってきた。それは、暴力を制御するということだ。フロイトが、「イド(無意識?衝動?)あるところにエゴ(意識?理性?)あらしめよ」と言ったが、まさにそういう感じで、それまで暴力についてあまり考えてみたことがなかったのが、考えることが多くなり、それにともなって、暴力的衝動が少しずつ意識の制御下に入ってきて、最終的には、少なくとも「われを忘れて」暴力をふるったりする可能性は、絶対になくなった(まあ、もともとそれほどあったわけではないが)。もし、暴力をふるうことがあるとすれば、先ほどの宗道臣氏の例のように、他の解決案を探したが、暴力しかないと理性が判断したときだけだろう。つまり、暴力は理性の制御下に入ったわけだ。
 性だってそうで、性について教えてくれる道場でもあって、週に1回なり2回なり稽古に通って、汗まみれになって実習し、やがて上達して段位でももらうことができるなら、完全に理性の制御下に入るだろう。しかし、これはさしあたって実現不可能な解決策だ。
 しかし、暴力は、武道という形で、実習中心に教育できる。上手に教育すれば、子どもは非暴力的になるだろう。確かにある種の武道家は右翼的な傾向もあるし、ある種の武道家の弟子になると、かえって暴力的な傾向が強まることもあるかもしれない。しかし、それは個別の武道家の問題であって、武道そのものの問題ではない。
 「性」も「暴力」も、臨床心理学が格闘してきたテーマなのだが、考えて出てきた答えが「実習」という身体的な訓練であるということは、ちょっとがっかりしてしまう。どちらも、話し合いを超えたところで起こる身体的な出来事なんだね。つまり、動物的な出来事で、すべてではないけれど、ある部分が心理学の守備範囲の向こう側にあるんだ。だから、カウンセリングだけでは解決しないということだ。

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