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スレッドNo.704

野田先生の補正項から

ヒューマニズムの適用範囲
2001年03月11日(日)

 ヒューマニズム(人間中心主義)がルネサンス以後に果たした積極的な役割を、私は高く評価しているし、否定する気は毛頭ない。例えば、国家や法や制度や貨幣や会社や学校は人間の作ったものだから、人間がそれらを使うのであって、それらが人間を使ってはいけないと思う。これは、繰り返し思い出さないといけないことだ。
 しかし、どのような思想にも、必ず適用範囲がある。ヒューマニズムも、どんな場合にも通用する普遍的な真理ではない。例えば、臓器移植や生殖医療や遺伝子治療などを正当化しているのは、ヒューマニズムだ。しかし、これは、ヒューマニズムの適用範囲の不当拡張だと思う。ヒューマニズムは、「《人間が作ったもの》が人間を使ってはいけないのであって、人間がそれを使うのだ」という思想であって、人間が作ったものではないもの、すなわち自然については、「自然が人間を使ってはいけないのであって、人間が自然を使うのだ」とは主張していないのだ。現代医療は、自然の領域を人間が支配しようとしている。ちょうど、合成化学が、一方では人間のために役に立ったが、一方では自然を破壊し、結局人間を破壊する方向に走るかもしれないのと同様に、現代医療も、長期的に見れば、自然のバランスを破壊し、最終的には人間の首を絞めるしめるかもしれない。
 もっとも、「最終的に人間の首を絞める」という考え方がそもそもヒューマニズム的だ。たとえ人間の首を絞めなくても、自然のバランスを崩すのは良くないと、私は思う。人間は自然の一部であって、自然には従わなければならない。エコロジーとヒューマニズムとは、ある部分対立する思想なのだ。



形而上学嫌い
2001年03月18日(日)

 私は、「人間は誠実でなければならない」と思っているようだ。あるとき、「なぜ誠実でなければならないのですか?」と質問されたことがあって、絶句してしまった。人が誠実でなければならないのは、私にとって自明なことだったから。今でも、なぜ人は誠実でなければならないのか、その道理を説明する方法を私は知らない。ただ、やみくもにそう信じているだけなのだ。誠実さ以外にも、やみくもに信じている道徳観念がたくさんありそうに思う。
 フロイトなら、私がどうして誠実さにこだわるのかを、精神分析してくれるかもしれない。しかし、誠実さというのは価値観で、価値観は科学が説明しなくていいことだと思う。フロイトの分析結果は、理屈は通っているかもしれないが、私にとっても他の人にとっても何も役に立たない、奇妙な説明になるだろう。
 価値観は、音楽にたとえると、調性感覚みたいなものだ。それはそのようにあるものとして、では音楽をどう組み立てればいいかを考えればいいのであって、調性感覚そのものを触ろうとすると、作曲理論の適用範囲を超えてしまって、理屈は通っているのだが聴くとおかしな音楽を作ることになってしまう。シェーンベルクが十二音技法について説明するのを読むと、とても説得力があるのだが、ではできた音楽に説得力があるかというと、それはないのだ。
 心理学は、心理学に固有の領域のことしか説明できない。心理学の領域とは何かというと、今の心理学者(ただし一部の臨床心理学者を除く)は、「行動」だと言うと思う。「誠実さ」というような道徳観念は心理学が説明する領域の外にある。なぜなら、それそのものは観察できないから。科学である心理学は、観察できるものを対象にして話をしないといけない。観察できるものだけが「語りうるもの」なのだ。ヴィトゲンシュタインが言ったように、「語りうるもの」を明晰に語るためには、「語りえないもの」が何であるかをはっきり知って、それについては沈黙することだ。観察できないものは、科学にとっては「語りえないもの」なのだ。
 フロイトもシェーンベルクも、形而上学に手を出しているのだと思う。知的な人間にとって、形而上学はたまらない誘惑だ。モヤモヤとして説明のつかないもの、直接に観察できないで、ただ「きざし」だけを観察できる世界に投げかけてくるもの、しかも人生や世界の本質に関わりがありそうなものに、筋の通った説明をつけることができたとき、便秘が解消したように人は喜ぶのだ。たとえば、フロイトが扱おうとしていた無意識なるものは、存在することは確かかもしれないが、直接に観察できないもので、ただ「きざし」を観察できる行動に投げかけてくるだけものだから、形而上学の対象であって科学の対象ではない。
 形而上学の説明は、時として説得力に溢れている。しかし、その論証は、結局はそうであるともそうでないとも証明ができない思弁的なものだ。筋は通っているかもしれないが、しかし意味がない。なぜなら、記号が、指し示すものなしに使われているから。記号がただ面白く組み合わされているだけであって、何も意味していないのだ。
 いまだに臨床心理学者の多くは形而上学の世界で遊んでいる。いいかげん、「語りえないもの」については沈黙することを学んだほうがいいと思う。

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