野田先生の補正項から
時機相応
2001年03月26日(月)
正岡子規が「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集にこれあり候」と書いていて、実際私も、古今集の歌の大部分はくだらないと思うのだが、平安時代にはそういう歌もくだらなくなかったわけだ。美意識というものも相対的で、今どきは「実感」というものを重んじるので、恋をしているわけでもないのに恋わずらいの歌をよむ古今集の歌人たちを下手な歌よみだとも思い、そういう歌をくだらないとも感じるが、古今集の時代の歌人は、恋をしてやっとそれを歌によめる現代の歌人を下手な歌よみだと思い、そういう歌をくだらないと思うだろう。
だから、モーツァルトが「面白い音」のために音楽を書こうが、ワーグナーが芝居の隈取に音楽を書こうが、価値相対論に立てば、必ずしもくだらないわけではないし、ある状況下ではそれなりの意味なり価値なりがあることになる。その意味なり価値なりは、その時代の文化全体の文脈の中で決まってくるわけで、個々の作品が独立に意味や価値を担っているわけではない。「個々の作品は単語で、文化全体が文だ」と思えばいい。
芸術だけではなくて、思想や宗教だってそうなので、例えば浄土教は鎌倉時代には意味があったが、現代の文化の文脈の中では意味を失っている。だって、地獄にも極楽にも阿弥陀仏にも、現代の民衆はリアリティを感じないのだもの。
立川武蔵氏は、著書『ブッダの哲学―現代思想としての仏教』(法蔵館)の中で、浄土教の宗教哲学的な意味を、中観(ちゅうがん)哲学の立場から掘り下げられて、なかなか深いなと感心するのだが、しかし鎌倉時代の浄土教に関して言えば、それは一文不知の民衆のための宗教であって、中観のようなエリートの宗教ではなかったのだ。自らの宿業(しゅくごう)の深さにおびえ、実感として地獄を怖れ、聖道門の修行についてゆけぬ自分に絶望したはてに、口称念仏を頼みにするしかない民衆が大勢いて、そこで法然や親鸞の教えが意味を持ったのだ。でも、今、そういう民衆はどこにもいない。それでも浄土教が今も存続しているのは、今でも百人一首で古今集の歌が聞こえてくるようなもので、そこに魂がこもっているわけではない。
イスラム教だって、あるいはそうなのかもしれない。マホメットが生きていた時代には意味があったさまざまの戒律や儀式が、現代では意味を失っているかもしれないのだ。しかし、それも存続している。そこに魂を込めようとするイスラム原理主義は、だからひどいアナクロニズム(時代錯誤)に陥ってしまう。弟子に古今風の歌を強制する短歌の師匠のようなものだ。
子規はムキになって古今集を攻撃し、ムキになって万葉集を擁護するが、芸術の話だから、いくら過激な言い方をしてもころし合いにまではならない。しかし、宗教ではそうはいかない。「親鸞は下手な宗祖にて真宗はくだらぬ宗派にこれあり候」というと、今でも怒る人は大勢いるだろうし、「マホメットは下手な教祖にてイスラム教はくだらぬ宗教にこれあり候」などと言うと、ころされるかもしれない。
しかし、短歌でも宗教でも同じなので、文化的な文脈全体の中で意味を帯びたり帯びなかったりするのだと考えて、永遠普遍の真理だなどと主張しないほうがいい。芸術も宗教も時機相応、すなわち、それが作られたときの時代の流れや民衆の求めに対応しているのだということだ。
因果性
2001年03月31日(土)
事象1 → 観察
↓ ↓
因果連鎖 論理操作←仮説
↓ ↓
事象2 → 予測
科学は、上図のような構造をしていると思っている。すなわち、ある事象を観察して、それにもとづいて論理的に考え、ある予測を立てる。そうしておいてから、その予測に相当する事象が実際に起こっているかどうかを観察する。繰り返し観察して、予測がかならず当たるとすると、その論理操作を支えていた仮説が検証されたと考える。
およそ論理操作というものは、かならず仮設にもとづいている。仮説は、「すべての事象1は事象2を引き起こす」という形をした全称命題で、実際におこった事象1と事象2とは、その全称命題の個別のケースへの適用だと考えられる。
話が抽象的なので、具体例をあげると、「すべての人は死ぬ」という仮説を立てて、個々の人を観察すると、人Aも死に、人Bも死に、人Cも死んだ。死ななかった人はひとりもいなかった。だから、「すべての人は死ぬ」という仮説は検証された。そうなると、人Nを観察すれば、「人Nはかならず死ぬであろう」と《科学的に》予測することができる。
このとき、事象1(人である)と事象2(死ぬ)との間には、因果連鎖があると考えられる。事象1が原因で事象2が結果だ。そうなると、仮説は、世界の因果関係の写像であることになる。このモデルは、まるで昔の行動主義者(S-R論者)のようにあらっぽいけれど、今の議論をするには充分だ。
さて、仏教も因果論だといわれている。仏教の因果論と科学の因果論は、同じものだろうか、違うものだろうか。仏教で因果応報といわれているのは、「善因楽果、悪因苦果」ということだ。すなわち、「私が善行をすると、かならず私は楽になるし、私が悪行をすると、私はかならず苦しくなる」ということだ。この仮説は検証できるだろうか。
できないのだ。悪いことをした人間がぬくぬくと幸福に暮らしているのも観察できるし、善いことばかりしている人が一向に報われないこともある。だから仏教徒は来生ということを考えて、「今生で報われなくても、かならず来生で報われるのだ」と主張するが、来生は観察不可能なので、この予測は科学的でない。
もっとも、「善因楽果、悪因苦果」というのは在家用の方便であるかもしれない。ゴータマ・ブッダは、出家と在家をはっきり区別して説法して、在家には「善い行いをすれば、来生は天に生じるであろう」と言ったのだが、出家には、もっと抽象的に、「これあればかれあり、これなければかれなし」と言った。彼がこれを言った文脈は、十二支縁起か四諦かどちらかで、もし十二支縁起だとすると、「無明あれば苦あり、無明なければ苦なし」だし、四諦だとすると、「渇愛あれば苦あり、渇愛なければ苦なし」である。
これが、科学的な意味での因果論なのかそうでないのかは、「無明」だとか「渇愛」だとか「苦」だとかを定義しないと、なんともいえない。いずれにしても、仏教には二種類の因果論が混在していて、「善因楽果、悪因苦果」と「これあればかれあり、これなければかれなし」とは、かなり性格の違ったものだということだ。