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スレッドNo.707

野田先生の補正項から

因果性(2)
2001年04月01日(日)

 科学が成功したのは、観察できる事象だけをとりあげて、その間の因果性を論じたからだ。とはいえ、事象1と事象2の間の因果連鎖に、観察できない「もの」が介在することを想定することはある。それを「仮説構成体」という。
 仮説が立てられたときには観察できなかった仮説構成体が、やがて技術の進歩で観察できるようになった例もある。そうなると、もはや仮説構成体ではなくなって、実体になる。たとえば、メンデルが遺伝の法則を発見したとき、遺伝子そのものは観察できなかったので、仮説構成体だったが、やがて技術の進歩で観察できるようになったので、今では仮説構成体ではない。
 こういうのはいいのだが、将来ともに観察できそうにない仮設構成体を許容してもいいものだろうか。精神についての科学(たとえば心理学)では、将来ともに観察できそうにない仮説構成体を乱用する傾向がある。これは危険だと思う。たとえば「自我」とか「自己」とかいうのは、観察できない仮説構成体だし、今後とも観察できそうにない。こういうものを許容すると、いつしかそれが実体であるかのように思い込まれて、本来の論理構造から離れたところで乱用される怖れがじゅうぶんにある。以前に触れたことがある「心的外傷(心の傷)」もそうだ。それそのものは決して観察できないので、実体ではない。こういうものは話題にしないで理論を組み立てたい。私が専門分野でしようとしていることはそれなのだ。
 ここでは専門の話はしないことにしているので、以上は前フリだ。昨日、仏教の因果論について、それが科学と同じかどうかわからないという話をした。「善因楽果、悪因苦果」は科学的な認識ではなくて、信仰だと思う。これはいいのだが、十二支縁起の「無明あれば苦あり、無明なければ苦なし」と、四諦の「渇愛あれば苦あり、渇愛なければ苦なし」は、よくわからないと言った。
 苦・楽は観察可能であるとして、無明と渇愛はどうか。無明というのは、「あること」についての無知のことであるとすれば、「そのこと」を知っているかどうかを確認することができるから、観察可能だ。一方、渇愛というのは原語は「渇き」ということで、水を求めるように「あること」を求めていることだが、その「あること」とは、古い注釈によれば、「生きること」や「死ぬこと」なのだそうだ。「生きることを求めていますか」と質問して「はい、求めています」というほうは信頼できそうだが、「いいえ、求めていません」というのは、信頼できるのだろうか。だって、求めていなくても、生きているわけでしょう。どうもデータの信憑性が薄いように思えて、観察可能ではないんじゃないかと思う。だから、十二支縁起のほうは科学に近くて、四諦のほうはあまり科学に近くないようだ。
 しかし、十二支縁起のほうは、途中にわけのわからない仮設構成体がズラズラと挿入される。こういう点で、どうも科学とは言いがたい。きわめて思弁的なのだ。つまり、結論として、仏教の因果論と科学の因果論は、一見似ているようだが、実はまったく違うものなのだと思う。
 このことは、仏教の価値を貶めるものではない。そもそも、科学が尊いとは、私は思っていないのだ。科学は、「観察可能な世界について予測し制御しようとするとき」便利な道具だ。仏教は、世界を制御しようとしているわけではない。そうではなくて、実存的な苦を逃れる方法を教えているものだ。
 つまり、科学と仏教とは、違うゲームなのだ。サッカーとテニスが違うくらい違うかもしれない。事象の間の因果性を前提にするとか、事象間の因果性が言語的な論理に写像されていると仮定するとか、そういう点は似ているが、それはサッカーもテニスもボールを使うという程度の類似にすぎないのかもしれない。
 ある種の仏教者は、仏教は、たとえばキリスト教に較べて、科学的だから優れているというような主張をするが、それは、箸を使う日本人は手で食べるインド人より優れているという主張と同じような、一種の差別的偏見だ。科学は、「観察可能な世界について予測し制御しようとするとき」便利な道具であって、宗教は、そういう対象のために存在するわけではないので、科学に似ているから優れた宗教だとはいえない。だいいち、仏教は、上に考察したように、科学とそれほど似ていないかもしれない。

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