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スレッドNo.708

野田先生の補正項から

科学と宗教
2001年04月02日(月)

 科学も仏教も「ゲームのルール」だと昨日書いた(あいかわらず私は構造主義者だね)。ルールとして整合的でありさえすれば、科学と宗教が違うルールを採用していても、一向にさしつかえがない。カトリック教徒の産婦人科医が、右脳ではマリアの処女懐胎を信じていて、左脳ではいかなる人間も受精しないでは懐胎しないことを信じていても、一向に問題はない。ある人が、テニスをしたり将棋をしたりして、将棋をするときテニスのルールにこだわらず、テニスをするとき将棋のルールにこだわらないのと同じだ。
 しかし、と人は言うかもしれない、カトリック教徒は教会にいるときだけカトリック教徒であるわけではなく、クリニックで診察をしているときにもカトリック教徒ではないか、と。人は、テニスをしながら将棋をすることだってできるんだよ。少なくとも原理的にはね。
 とは言うものの、たしかに科学のルールと宗教のルールが似ているほうが、混乱は少なくてすむ。だから、産婦人科医はカトリック教徒でないほうがいいかもしれないし、輸血をしなければならない麻酔科医は輸血を禁じているエホバの証人の信者でないほうが便利だろう。鎌倉時代に、せっしょうをせざをえない武士たちは、せっしょうをしても極楽往生できると説く浄土教に改宗した。インドでは逆のことがおこっているようで、一切のせっしょうを禁じているジャイナ教の信者は、虫をころすかもしれない農民にはならないで、商人になっている。そうなると、いずれにせよ、複数の宗教があったほうがいい。そうでないと、世俗の生活が不便になるかもしれないから。



語りえないもの
2001年04月04日(水)

 四国遍路の笠には

  迷いの故に三界の城
  悟りの故に一切は空

 と書いてある。ここで三界というのは、欲界・色界・無色界の三つの界なのであるが、水野弘元『仏教要語の基礎知識』(春秋社)によれば、「三界の本来の意味は空間的地域的な世界を意味するのではなく、人間の心の状態を世界と名づけたものである。(中略)後には善悪業による報果として得られる世界として空間的な三界の概念も生ずるようになった。そして三界は輪廻の迷界であるが、煩悩の迷いを脱すれば、三界世間を超えて無漏の出世間に入るとされた」(pp.200-201)とある。上述の笠の喝文では、あきらかに空間的な世界を意味して使われている。
 本来はどういう意味でこの言葉が使われていたかを少し離れて、私なりに少し妄想してみたいのだが、人間はものごとを二分して考えるのも好きだが、三分して考えるのも好きだ。特に仏教哲学者たちは三分するのが好きであるように思う。この三界というのも、「精神と物質」という二分法ではなくて、「精神(欲界)と物質(色界)とそれ以外のもの(無色界)」という三分法だと理解できないこともないし、きっとはじめはそういう意味だったのだろうと思っている。
 精神でも物質でもない世界とは何か?水野氏の著書によれば、「無色界とは物質的なものがなくなり、心が極めて静まった状態」と書いてあって、どうも元々は悟りの世界のことを言ったようだ。われわれの知っている精神世界は欲望に満ちているし、物質世界はその対象なのだが、これ以外に第三の世界があって、そこへなんとか到達したいものだと仏教徒たちは願ったのだろう。しかして、欲界と色界は「語りうるもの」だが、無色界は「語りえないもの」だとも考えていたように思われる。
 なぜこんなことを書いているかというと、四国遍路を歩きながら、ずっと「語りうるものと語りえないもの」とについて考えていたからだ。ヴィトゲンシュタインが「語りえないものについては沈黙しなければならない」と言ったとき、誰が沈黙しなければならないのかというと、「論理学者は」あるいは「科学者は」ということだと私は考えている。つまり、詩人や宗教家は沈黙しなくていいのだ。沈黙しなくていいのだが、「明晰に語る」ことはできない。たとえば、無色界については、詩的になら語れるが明晰に語ることはできず、明晰に論理学的に語ろうとするなら沈黙しなければならない。それはわかったとして、「詩的に語る」というのは、どのようにして可能なのだろうか。なんだか、そんなことをフワフワと考えていた。



語りえないもの(2)
2001年04月05日(木)

 フランスの精神分析学者ジャック・ラカンは、「無意識は言語の構造をもつ」と言ったが、馬鹿げている。もっとも私は「無意識は言語の構造をもたない」とも言わない。なぜなら、無意識は、定義上意識できないもので、意識できないものは直接的には「語りえないもの」だから、それが言語的なのか言語的でないのかを「明晰に」語ることはできないから。
 素朴に考えて、「世界は言語よりも大きい」と考えているので、語りえないものがあって、しかもそれを人間は感知すると思う。つまり、無意識はかならずしも言語的ではないと思う。思うけれど、証明することは原理的にできない。
 ラカンも構造主義者だといわれているし、私もしばしば構造主義的に考えるが、私は彼のように、世界全体が構造主義的に説明できるとは思っていない。構造主義的に説明できるのは言語と関係した世界だけで、その外側にも世界があって、そこでは構造主義は使えない。ラカンはフランス人だから、「神はことば」なのだが、私は東洋人なので、「第一義は語りえない」と思っている。
 あいかわらず四国遍路を歩いているが、これがどういう体験なのかを言葉にすることはできないことはない。できないことはないが、体験のない人には伝わらないと思う。四国遍路の手続き(ルール)は、しかし、明晰に語ることができる。その部分については、構造主義はきっちりと通用する。しかし、その手続きを踏んだ結果、個々人が体験することについては、ある程度の共通性はあるかもしれないが、まったく個性的なできごとも起こるだろう。たとえば、聖なる体験をする人もあろうし、なにも起こらない人もあろう。聖なる体験をした人としなかった人とでは、ある部分、言葉が通じないだろう。まして、歩き遍路を体験したことのない人とは、言葉はほとんど無力だと思う。
 二千五百年にわたって仏教が求め続けてきたのは、聖なる体験をするための手続きだった気がしている。しかし、インド人は、それをきわめて論理的な言葉で語ろうとしたので、しばしば無意味な形而上学に陥ってしまった。学問をする前に、まず歩いてみることだ。その上で、あるいは詩的になら、あることについて語りはじめることができるかもしれない。論理的に「明晰に」宗教体験を語ることは無理だと思う。

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