野田先生の補正項から
証明の根拠
2001年04月12日(木)
仏教論理学というものがある。中国へは玄奘三蔵が持って帰ったが、彼が訳した文献に誤訳があったのと、中国人の気質に合わなかったのとで、中国や日本では見るべき発展がなかった。しかし、仏教について考えるとき、さらには宗教一般について考えるとき、仏教論理学の知識は必須科目だと、私は思っている。
さて、仏教論理学では、証明の論拠をふつう二種類あげる。第一は現量(プラティアクシャ)で、これは五感で直接知覚された証拠だ。第二は比量(アヌマーナ)で、これは論理的な推論のことだ。この二つが矛盾するときにどちらが強いかというと、推論のほうが知覚よりも強い根拠になる。さすがインドは数学の国だ。しかし、考えてみると、それはそうでなければならない。知覚が全面的に信頼できるのであれば、論理は要らない。
第三の論拠として聖言量(シャーブダ)、すなわち、経典などの権威ある言葉も論拠として使えるという学者もあるが、多数説は、経典などの言葉は、「外界の対象と整合的であるときにのみ確実な認識方法として承認されるべきである」(モクシャーカラ・グプタ『タルカバーシャ(論理の言葉)』、梶山雄一訳「認識と論理」『世界の名著2、大乗仏典』中央公論社)と言われるように、知覚や推論に反するときは証拠として採用できない。
なぜこんな話をしているかというと、読者の一人からメールが来て、要旨は、「あるチャネラーが『悟りは言語で表現することが可能』だと言っている」ということだった。その人はその「聖言量」に納得しているようだ。まあ、そういう考え方もあるだろう。
チャネラーであれ誰であれ、権威のある人が言うことを証明の論拠として持ち出すという考え方は、それはそれでかまわないと思うが、私はそれはとらない。もっとも頼りになるのは、仏教論理学がいうように、「比量」すなわち論理的推論だ。
ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の中で、「明晰に語りうるものは、科学的な認識だけである」ことと、「語りえないものが存在する」ことを推論していく手並みは見事だ。これは「聖言量」として言及しているのではなくて、彼の論理を一緒にたどったので、「比量」として言及している。だから、「語りえないものが存在する。それが神秘である」という彼の結論に、私は賛成する。
むかし、アドラー心理学の解釈が正しいか誤っているかを判断する根拠として、仏教論理学の二種類の論拠のことを考えたことがある。ある人が、「治療をしてみて、効果があるほうが正しいアドラー心理学じゃないですか?」と言うので、「そうではなくて、アドラー心理学の論理に整合的なほうが、正しいアドラー心理学なんです」と答えた。
正しいアドラー心理学だからといって、「現量」として治療効果があがるとは限らない。たとえば、罰を使えば、アドラー心理学よりも「効果があがる」治療ができるかもしれない。実際、誤ったアドラー心理学解釈をばらまいている人々は、目先の効果を売り物にしている。しかし、罰は、アドラー心理学の論理に反しているのだ。「正しい」とか「誤っている」とかは論理的な判断なのだから、証明は論理的におこなわれなければならない。
もっとも、論理的に正しいアドラー心理学のほうが、罰を使うやり方よりも、長期的に見ればいい効果があると信じているのだが。ただし、それは証明できない。十年も二十年も先の効果を科学的に検証することはきわめて難しいのだ。だから、論理的な予測として、正しいアドラー心理学のほうが、長期的には効果があるのだと証明するしか、立証の方法がない。
専門の話もしないし、読者の反応にも答えないと言っておきながら、けっこう違反しているね。今日は一日自宅にいて、なにもしなかったので、ネタ切れなんだよ。
頼藤和寛君のこと
2001年04月13日(金)
頼藤和寛君が亡くなった。中学以来の同期生だ。しかし、中学と高校では知り合う機会がなく、仲良くなったのは、大学に入ってからだ。生まれてはじめて「天才」というものを見た。
変わった人だった。教養部時代は、詰襟の制服と角帽をかぶってきていた。昭和41年には、もうそういう学生はめったにいなかった。学部へ進学したころから異装が目立つようになり、長い髪の鬘をかぶったり、モヒカン刈りにしたり、着物に角帯で登校したりしていた。
彼には、さまざまのことを教えてもらった。ニーチェを読んだのも、三島由紀夫を知ったのも、彼のおかげだ。三島が自さつしたときには、彼の家で二人で夜明かしした。思春期のまっただなかだった。学生時代には、私一人だけしか親友はいなかったと思う。二人で、きわめて知的な対話を、飽きずにくりかえしていた。
とはいえ、知的なことだけではなく、人間性からも多くを学んだ。私は、どちらかというと熱狂派で、面白いものがあると全身でのめりこむが、彼は、内省的で、いつもある距離をもってものごとを見ていた。彼と会わなかったら、私は、ひょっとしたら、破滅していたかもしれない。のめりもうとすると、頭のどこかで、彼がほほえむのだ。「あいかわらずだね」って。
ダリが好きで、よく似た絵を描いていた。淡い味わいの短編小説を書いたりもしていた。音楽はよく知らなかったようだが、大人になってからクラシックにのめりこんだようだ。スポーツもまるで駄目だったが、大人になってテニスをはじめたようだった。いつも端正に生きていた。
大学の研究室も同じだった。常に私より一歩も二歩も先にいた。息を切らせながら、ようやくついていっているという感じだった。一緒に書いた論文がいくつかある。印象に残っているのは、看護学の雑誌に二人で連載したのと、『舞踊研究』というモダンダンスの研究誌に書いたのとだ。後者は、喫茶店で二人でバナナクレープを食べながら書いた。
大人になってから彼は、多くの本を書いたし、新聞などにも連載をいくつかしていた。ものすごいエネルギーだった。急いで生きているという感じだった。そんなに急ぐから、早く逝ってしまうことになったんだよ。もうちょっとのんびりしてもよかったんじゃないか?
半年ほど前、大腸癌の手術をしたと聞いた。「五年生存率は20%程度かな」と冷静に言っていた。五年どころじゃなかったね。君は死を恐れるタイプの人じゃなかったし、自分が死んだからといって人に悲しんでもらいたいタイプの人でもなかったから、泣かないことにする。