野田先生の補正項から
丸暗記による自己改革
2001年04月18日(水)
昨日書いていたが、仏教の経典などは、なるべく丸暗記するように努めている。もちろん、『法華経』だの『無量寿経』だのの全文を丸暗記できるわけがないので(むかしは丸暗記した人がいたようだが)、「名文句」の部分だけでも暗記しておく。さいわい、漢文は口調がよくて暗記しやすい。
意味はたいしてわかっていないかもしれない。そもそも、「意味を理解する」という学習の方法は、自分を変えることをめざす場合、あまりいい方法ではないと思っている。「理解する」というのは、それまでの自分の知識のシステムの中に教材が語ることをはめ込むことで、従来の知識は、量的には変化しても、質的には変化しない。仏教を学ぶというのは、認知構造を変革することだと思っているので、従来の知識で経典を読んでいるかぎり、いつまでたっても、知識は増えても、知識の構造は変わらない。
丸暗記すれば変わるかというと、かならずしもそうでもないのだけれど、すくなくとも変わる可能性はできてくる。昨日「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」という『観無量寿経』の一節を書いたが、最近、妙なときにこれを思い出した。友人の子どもが死んで、父親が嘆き悲しんでいるとき、「こういうことまで含めて、なにもかも一切が仏さまの光の中にあるんだなあ」と納得したりしていた。もっとも、私がこう納得したところで、友人が救われたわけではないが。
友人のことはともかくとして、『観無量寿経』の文句は、私の知識のシステムの中の妙な部分に楔になって打ち込まれたような感じがする。知識のシステム全体が構造を変えないと、それがうまくおさまらないのだ。だって、普通の人に、「あなたの子どもさんが亡くなったのも、あなたが悲しいのも、すべて仏さまの光の中で起こっているできごとなんですよ」というと、殴られるかもしれない。それは私だってそうなので、とまどいがあって、やがて深々と納得するわけだが、この納得は、知識の構造が少し変わったときの感覚なのだろう。
専門の、アドラー心理学の文献も、アドラー自身が書いたものは、丸暗記することにしている。もっともこれは、アドラーを聖人扱いしているわけではなくて、仏教の経典と同じく、自己変容の手段としてアドラーを使おうと思っているからだ。彼は触媒なのだ。
そういう点では、仏教も同じで、ゴータマ・ブッダであれその他の祖師であれ、神格化しないでつきあっている。だから、「仏教徒」とは言いがたいと思う。個人崇拝はしないことにしているのだ。ゴータマまで含めて。すばらしい先生だとは思うけれど。
誰か中国人が、アドラーの文献を中国語に(それもできれば文語に)訳してもらえないだろうか。そうすれば覚えやすいのに。まあ、私のためだけにそこまでしてくれる人はいないだろうね。この前、中国語の経典を日本語に訳さなかったことの悪口を書いたが、中国語の覚えやすさと日本語の覚えにくさが、和訳しなかった理由のひとつだろう。アドラーを英語や日本語で暗記しようとして、口調が悪いので困っている。
「ない」の論理学
2001年05月07日(月)
宮古島へは二冊の本を持っていった。一冊は、根深誠『みちのく源流行』(つり人社)だが、行きの飛行機の中で読みはじめたとたんに、これは間違ったものを持ってきたなと思った。プンプンと沢の匂いのする本なのだ。まだ沢登りができるようになるまでには2ヶ月近くあるので、まるで刑務所でエロ本を読んでいるようで、欲求不満で息が苦しくなるほどだった。
それで、その本はやめて、もう一冊の方を読むことにした。小川一乗『仏性思想』(文栄堂)だ。これは、『宝性論』というインドの論書に対してチベット人タルマリンチェンが書いた注釈書を解説したものだ。以前に一度読んだのだが、すこし必要がありそうなので、再読することにした。
インド人やチベット人の議論は、おそろしく理屈っぽい。それが私には、とても面白いのだ。とくに、大乗仏教の論書の話題は、「ない」ということで、これが猛烈に錯綜していて、それが面白い。もうすこし具体的にいうと、「自我がない」だの「実体がない」だのといったことが、いったいどういうことであるかの議論だ。ふつう、議論は「ある」ということをめぐっておこなわれる。それについては論理学はじゅうぶんに整備されている。しかし、「ない」ということをめぐっては、論理学自体が未整備なのだと思う。
たとえば、「ここには女はいない」という言明は、ふつう「男ならいる」ということを含意している。しかし、ひょっとしたら「だれもいない」ということを意味しているのかもしれない。つまり、「女もいないが男もいない」ということかもしれない。あるいは、「女も男もいないが犬ならいる」という意味かもしれない。あるいは、男も女も犬もいなくて虚空だけしかなくても、それを見ていて報告している私はいることになる。つまり、「誰かいるかいないかはともかくとして、私はいる」ということかもしれない。さらには、単に「女はいない」というだけで、他に何かいるかどうかについてはいっさいノーコメントであるのかもしれない。「ここに女がいる」という言明が一意的にある事態をさし示しているのに対して、「ここには女はいない」という言明と対応する事態には、このようにさまざまの可能性があるのだ。
仏教徒が、「自我はない」というとき、それは「自我には実体がない」という意味だという約束になっている。仏教スラングでいうと、「我は空である」というのは「我は自性において空である」という意味だという約束になっている。じゃあ、実体でない自我はあるのかというと、それはもちろんある。私が私だと思っている「それ」だ。この「現象としての私」が存在しないとは、仏教は主張していない。
ところが、議論の最中に、しばしばそのあたりのことがアヤフヤになるのだ。先ほどの「ここには女はいない」と同じで、「じゃあ、いったい何がいるのか」ということを言いはじめると、男がいたり犬がいたりなにもいなかったり、ときには「見ている私」だけがいたりするのだ。こういうあたりの混乱を読みとるのがとても楽しい。インド人もチベット人も、記号論理学を使っているわけじゃないので、つい日常語的な語感に流されて、非論理的な誤りを犯してしまう。それをみつけだすのが面白くて仕方がない。これって、かなりヲタクっぽいね。