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スレッドNo.713

野田先生の補正項から

「ない」の論理学(2)
2001年05月08日(火)

 臨床心理学はフロイトが「無意識」というアイデアを思いついたときにはじまる。無意識というのは、語義的には「ここには意識がない」ということだが、じゃあ「意識がない」というのはどういうことか。
 「意識がない」というと「なにもない」と考える人がいる。脳外科医などはそうで、彼らがいう「意識がない」というのは、高次神経機能がすべて麻痺している状態のこと(意識混濁)のことだ。
 しかし、心理学者は、意識混濁や失神の話をしているのではないから、「意識がない」といっても「なにもない」とは考えない。心理学者の中には、「意識がない」というのは、「高次神経機能は働いているけれど、ただ『意識』と呼ばれる機能だけがないのだ」と考える人がいる。アドラーなどはそうだ。そうは考えないで、「意識がない」というのは「意識の代わりに無意識というものがある」という風に考える人もいる。フロイトなどがそうだ。
 意識だと、話がわかりにくいので、「ここに人はいない」を例に考えてみよう。「なにもなくて虚空しかない」という解釈もありうるし、「人はいないけれど犬はいるかもしれない」という解釈もなりたつかもしれない。けれど「『無人』がいる」というのは変だよね。フロイト式の「無意識がある」というのは「無人がいる」というのと同じで、実はおかしな考えだと思う。
 論理学的に見ると、アドラーは「ここに意識がない」といい、フロイトは「ここに無意識がある」と言っている。つまり、「無」は、アドラーにおいては述語であり、フロイトにおいては主語だ。別の言い方をすると、「無」は、アドラーにおいては機能で、フロイトにおいては実体だ。アンスバッハーという学者は、「無意識(Unbewusst)という単語を、フロイトは名詞として使い、アドラーは形容詞として使った」と言っているが、同じことだ。
 フロイトは無意識を実体化して主語にし、そこから無限の思弁を繰りひろげていった。まともにものを考える臨床心理学者は、それと百年間戦い続けなければならなくなったのだ。しかし、素直に考えれば、「不在のもの」を主語にするのはおかしいと思う。「無人がいる」というように。「ない」についての論理学があいまいだから、百年も無駄な議論をしなければならなかった。



「ない」の論理学(3)
2001年05月09日(水)

 ゴータマは「自我はない」と言った。しかし、「この私」はあるだろう。だから、この言明には、なにか深い意味があるんだ。

 部派仏教(小乗仏教)の学者は、ゴータマの言葉を解釈して、「自我はないが、その構成要素(法)はある」と考えた。彼らによれば、自我はたとえば馬車のようなものだという。車輪や車軸や車体などで馬車ができていて、車輪等の構成要素はたしかに実在するが、それを離れて馬車というものは実在しない。

※浩→部派仏教:釈迦 (しゃか) 入滅後100年ごろから約300年の間に分立した諸派の仏教。アショカ王の時代に、教団が保守的な上座部と進歩的な大衆部とに分裂し、以後、上座部が11部、大衆部が9部の20部となった。のちにおこった大乗仏教からは小乗仏教と貶称 (へんしょう) された。

 ナーガールジュナ(龍樹)がこれに反発して、「自我もないし、その構成要素もない」と言った。自我や構成要素の存在をわれわれは感じるが、それは幻覚のようなものであって、実在ではないというのだ。つまり、一切(=自我と構成要素)は空だと、彼は言う。
 唯識派はこれに反発して、「自我もないし構成要素もないんだったら、虚無主義じゃないか。そうじゃなくて、自我も構成要素もないが、それをみている「識」はある。ただし、その識は、意識されていないので、ふつうの自我や意識のことではない」と言った。
 (龍樹の一派の)中観派はたまげて、「それじゃ自我があるといっているのと同じじゃないか。名前を変えたって、自我は自我だぜ。そうではなくて、ナーガールジュナが言ったように、自我も構成要素も、“実体”としてはないが、“現象”としてはあるんだ」と言った。
 この論争は一千年も続いたが、決着がつかなかった。私がこの論争を追いかけるのは、臨床心理学について考えるうえで意味があるように思っているからだ。唯識派はフロイトやユングに似ていて、「一切は存在せず、ただ無意識だけがある」と言っているし、中観派はアドラーに似ていて、「一切は実体としては存在しないが、現象としては存在する」と言っている。中観派の唯識批判をきっちりと読んでいくと、フロイトやユングをどう批判すればいいのかがわかってくる。

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