野田先生の補正項から
「ない」の論理学(4)
2001年05月10日(木)
家族から嫌われている父親がいたとしよう。彼がいないとき、家族は仲良く笑いながら暮らしているのだが、彼が帰ってきたとたんに雰囲気が暗くなって、どんよりと重たい空気の中で傷つけあいながら暮らす。さて、この父親から見ると、家族は暗くて重たいところで、笑うことはおろか、話すことさえめったにない。ところが実は、彼さえいなければ、みんなしあわせに暮らしているのだ。彼は、自分が不在のときの家族を知らない。
これはたとえ話で、われわれは自分が不在のときの世界を知らないということを言いたいのだ。逆にいうと、自分が臨在することの効果を知らないのだ。われわれが住んでいる世界が明るいところか暗いところか、楽しいところか苦しいところか、面白いところかつまらないところか、みんなが助け合う世界か足をひっぱりあう世界かは、実は私の臨在や不在と関係しているのかもしれない。それほど関係していないのかもしれないが、かなり関係しているのかもしれない。それをわれわれは、直接には知りようがないのだ。
「私がいない時、みんなはどうしているの?」と誰かに聞いてみるという案は、あまりいいアイデアではないかもしれない。みんな遠慮して、ほんとうのことを言わないかもしれないし、もし本当のことを言ったとしても、それは、聞かれたほうの人が臨在している世界であって、その人がいないと変わるかもしれない。あるいは、ほんとうのことを聞くと、われわれはひどく傷つくかもしれない。最初に例にあげた父親に、「あなたさえいなければ、家族はとてもしあわせに暮らしているんですよ」というと、彼が傷つくように。
ビデオなどで録画しておくというアイデアもあるが、情報量が限られている気がする。実際にそんなことをしてみるほど、みんなはパラノイアックじゃないみたいだし。
※浩→パラノイア=偏執(へんしゅう)病、妄想症ともいわれ、頑固な妄想のみをもち続けている状態で、その際に妄想の点を除いた考え方や行動は首尾一貫しているものである。
幻覚、とくに幻聴は伴わず、中年以降に徐々に発症し、男性に多い。妄想の内容は、高貴な出であると確信する血統妄想、発明妄想、宗教妄想などの誇大的内容のものをはじめ、自分の地位・財産・生命を脅かされるという被害(迫害)妄想、連れ合いの不貞を確信する嫉妬(しっと)妄想、不利益を被ったと確信して権利の回復のための闘争を徹底的に行う好訴妄想、身体的な異常を確信している心気妄想などがある。一般には、自我感情が高揚して持続的な強さや刺激性を示している。
パラノイアを独立疾患とみる立場と、統合失調症の一類型とみる立場、あるいは一定の素質と生活史や状況から理解できるという立場などがあって、今日なお一定した見解はない。
なお、パラフレニーparaphreniaは妄想だけでなく幻覚も伴うもので、人格の崩れの比較的少ないものをいい、多くは統合失調症に含まれている。
消極的な性格の人は、こういう心配をしなくていいかもしれない。そんなに場を支配しないから。まあ、消極的な人は消極的な人なりの支配の仕方もあるのだけれど、それでも積極的な人が場を支配するのとは違う。積極的な人は、「私が動かないと、ひどいことになる」と信じていて、ずっとそうして生きてきたものだから、自分が動かない場合にどういうことがおこるかを、実際には知らない。動かないと、けっこういいことがおこることもある。逆にいうと、動くので事態が悪くなっていることもある。治療をしていると、よくそういうことに出くわす。
まあ、人のことはよく見えるが、自分のことは見えないので、私がいない世界が私がいる世界よりも住み心地がいいのではいけないから、もうすこし消極的になってすこし離れたところから世界を観察してみよう。こうして、消極的になって、世界からすこし距離をとって、関与することを避けて、それで世界になにがおこるのか見てみるのは、自分の臨在の効果について洞察するいい方法なのかもしれない。