野田先生の補正項から
インドネシア語
2001年05月29日(火)
日本映画を見るついでに、今日は『ムルデカ』を見てきた。日本の軍人がインドネシア独立戦争を手伝う話だ。昨日の『ホタル』ほど監督が耽美的になって作っている映画ではないので、言うことはあまりない。どうしてあるのかわからない挿話があったり、展開がやたらまったりしていたり、という短所は同じだ。しかも、泣きたいほど美しい画面作りはない。ただ、面白かったことが1つある。それは、前半、日本が負けるまでは主に日本語でしゃべるのだが、後半、日本が負けてからは、日本人の俳優も皆インドネシア語でしゃべることだ。
インドネシア語は、もともとインドネシア諸島の人々がしゃべっていた言葉ではなく、マレーの海洋商人がしゃべっていた言葉が、一種の国際語となってあの領域一円に広まったものだ。国際語になるだけあって、発音も文法もきわめて単純だ。動詞の時制変化もないし名詞の格変化・数変化もない。"Saya makan kue." というと、「私は菓子を食べる」という意味なのだが、すでに食べたのかもしれないし、いま食べている最中かもしれないし、これから食べるのかもしれないし、食べるか食べないかというと食べる種類だということかもしれない。菓子も、単数なのだか複数なのだかわからない。ものの1か月も学べば、何とか目鼻のつく言語だ。音も、ちょっとイタリア語風で、いかにも南国的で美しい。
この言語を中学校の選択科目にしてはどうかと前から思っている。基本的な語順がヨーロッパ語式で、「主語+動詞+目的語」だし、前置詞もあるし関係代名詞もある。だから、英語やドイツ語やフランス語を学ぶ準備になる。それに、古い時代にはサンスクリット、次にアラビア語、次にオランダ語、最近は英語と、さまざまの文明からの外来語があって、アジアの歴史がわかる。さらに、アジアの人々の日々の暮らしや考え方がわかる。
英語や中国語を学ばせるのは、言語帝国主義に手を貸しているだけだ。かといって、エスペラントにはさまざまの問題がある。インドネシア語のような、いわゆる「大国」ではない国の言語で、しかも学びやすくて、しかもヨーロッパ諸言語を学ぶ基礎となる言語があるのに、これを放っておく手はないように思うのだが。
映画と議論
2001年05月30日(水)
いつも行く古本屋で竹山道雄『ビルマの竪琴』(偕成社文庫)を200円で手に入れた。子ども向きの読み物なので、一気に読めてしまった。何度か映画化されていて、そのうちのいくつかを見ているが、本で読むと印象が違う部分があった。どの映画も、ストーリーは忠実にたどっていたのだが、何度か長々と語られる著者の主張は、映画の中でも兵士たちの議論としては撮られていたのかもしれないが、印象がきわめて薄い。例えば次のようなものだ。
ビルマは宗教国です。男は若いころにかならず一度は僧侶になって修行します。ですから、われわれくらいの年輩の坊さんがたくさんいました。
何という違いでしょう!われらの国では若い人はみんな軍服を着たのに、ビルマでは袈裟をつけるのです。
われわれは収容所にいて、よくこのことを議論したものでした。──一生に一度必ず軍服をつけるのと、袈裟を着るのと、どちらのほうがいいのか?どちらが進んでいるのか?国民として、人間として、どちらが上なのか?
これは実に奇妙な話でした。議論していくと、いつも、しまいには何だかわけがわからなくなってしまうのでした。
まず、この両者の違いいは次のようなことだと思われました。──若いいころに軍服を着て暮らすような国では、その国民はよく働いて能率が上がる人間になるでしょう。働くためにはこちらでなくてはだダメです。袈裟は静かにお祈りをして暮らしているためのもので、これでは戦争はもとより、すべて勢いよく仕事をすることはできません。若いころに袈裟を着て暮らせば、その人は自然とも人間とも溶け合って生きるような穏やかな心となり、いかなる障害をも自分の力で切り開いて戦っていこうという気はなくなるでしょう。
(中略)
われわれがだんだん議論をしていくと、一生に一度軍服を着る義務と袈裟を着る義務とでは、その因ってきたるところは、結局はこういうところにあるのだ、ということになりました。つまり、人間の生きていき方が違うのだ、ということになりました。一方は、人間がどこまでも自力を頼んで、すべてを支配していこうとするのです。一方は、人間が我を捨てて、人間以上の広い深い天地の中に溶け込もうとするのです。
ところで、このような心がまえ、このような態度、世界と人生に対するこのような生き方はどちらのほうがいいのでしょう?どちらが進んでいるのでしょう?国民として、人間として、どちらが上なのでしょう?
(中略)
軍服と袈裟の議論はいつもこんな話になってしまって、どちらがいいのか、はっきりとは決めかねました。しかし、最後にはたいてい次のようなことに落ち着きました。
──ビルマ人は生活のすみずみまで深い教えに従っていて、これを未開だなどと言うことはとうていできない。われわれの知っていることを彼らが知らないからとて、バカにしたら大間違いだ。彼らはわれわれの思いも及ばない立派なものを身につけている。しかしただ、これでは弱々しくて、例えばわれわれのようなものが外から攻めこんできたときに自分を防ぐことはできないから、浮き世のことでは損な立場にある。もう少しは浮き世のことも考えなくてはいけないだろう。この世をただ無意義だと決めてしまうのではなく、もっと生きていることを大切にしなくてはいけないだろう。
途中省略したが、この議論だけで7ページもとっている。映画でどうだったか、さっぱり覚えていない。本というメディアと映画というメディアの違いで、こういう議論に説得力をもたせるのは、映画は不得意なのだ。
もう1つ別の小説の映像化で、同じようなことを最近感じた。それは夢枕獏の『陰陽師』だ。これはテレビドラマで、NHKでやっているのだが、小説の印象とひどく違っている。ドラマ化の過程で原作をかなり改悪してしまっているが、これは今は責めないことにしよう。主役の安倍清明を演じる稲垣吾郎は、ちょっと暗すぎる気もするが、それなりにいい感じを出している。相手役の杉本哲太演じる源博雅が、小説の感じと違う。そのことも関係するのか、二人の議論がよくない。小説の感じは、今だと大学院生くらいの年齢の男の子が議論しているような、やたらに知的で理屈っぽくて、しかも中途半端で、それがなかなかの味なのだが、ドラマではそういう感じはまったくなくて、なぜこんなところで二人がそんな話をしているのか、小説を読んでいない人にはさっぱりわからないと思う。小説では、「呪(しゅ)」というものを通じて一種の言語論が展開されていて、これが構成主義風でけっこう面白いのだが、映像ではそういうことを描くことはできないんだね。
呪
2001年05月31日(木)
夢枕獏『陰陽師』の中に出てくる「呪(しゅ)」の話をしたが、それと関係した面白い一節があった。
清明は、顔を赤くしている博雅を、やさしい眼で眺め、
「人は、仏にはなれぬ……」
ほろりと言った。
「なれぬのか」
「ああ、なれぬ」
「えらい坊主でも無理なのか」
「うむ」
「どのように修行をつんだとしてもか」
「そうだ」
清明の言葉を、腹深く呑み込むようにして沈黙してから、
「それはそれで、哀しい話ではないか、清明よ」
「博雅よ、人は仏になるというのは、幻(まやかし)よ。仏教も、あれだけ、この天地の理(ことわり)について、理づめの考え方をもっていながら、その一点において何故と、おれは長い間不思議であった。しかし、この頃になってようやくわかってきたのだが、その幻によって、仏の教えは支えられており、その幻にとって、人は救われるのさ」
「--」
「人の本性を仏と呼ぶは、あれは一種の呪(しゅ)よ。生きとし生けるもの皆仏とは、ひとつの呪なのだ。もし、人が仏になることがあるとするなら、その呪によって、人は仏になるのだ」
「ふうん」
(夢枕獏『陰陽師・飛天の巻』(文春文庫)pp.56-57)
夢枕氏はご存じないのかもしれないが、仏教はこのとおりに考えている。本質的には、迷いもなく悟りもないのだが、人間が言葉でもって、あるいは迷っていると思い、あるいは悟っていると思う。たとえば、『金剛般若経』にある、
私は一切の衆生を悟りの境地に導きいれなければならない。そうして一切の衆生を悟りの境地に導きいれおわっても、しかもひとりの衆生も悟りの境地に導きいれていない。
という謎めいた言い方は、そういう意味だと思う。客観の世界ではなにも変わっていない。ただ、自分を含めた客観世界への意味づけが変わるだけなのだ。「迷っている」と意味づけて自分と世界を見ていると、自分と世界は実際に迷いの中にあるし、「悟っている」と意味づけて自分と世界と見ていると、自分も世界も悟りの中にある。しかも、変わったのは言葉だけで、実体としての自分と世界はなにも変わっていない。なにも変わっていないが、自分と世界とのかかわりが変わるので、なにもかもが変わる。しかも変わったのは、意味づけだけだ。