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スレッドNo.721

野田先生の補正項から

バルトーク
2001年06月05日(火)

 昨日はマーラーの話をしたが、バルトークも同じころから聴いていた。高校1年生のとき、学校でチケットを安く売ってくれて、大阪フィルハーモニーのコンサートを聴きにいった。そのときの曲目は、バッハの『管弦楽組曲第三番』とバルトークの『ビオラ協奏曲』とベートーベンの『交響曲第六番』だった。しかし、妙なプログラムだね。真ん中にバルトークを入れるというところがすごいミスマッチ。3人ともBではじまるから洒落たのだろうか。
 しかし、私はそのバルトークが気に入った。音楽ってこんな風に語れるんだって、生まれてはじめて体験して、ショックを受けてしまった。ところが、いっしょに行った友だちには、バルトークはきわめて不評で、「どうしてあんな曲をするの?」なんて言って怒っていた。しかし、好きなものは好きでどうしようもないので、バルトークを聴きこんでみることにした。
 最初に買ったレコードは、ルドルフ・ゼルキンがピアノを弾いた『ピアノ協奏曲第一番』だった。オーケストラはセルのシカゴフィルじゃなかったかと思う。昭和30年代の後半の話だから、バルトークの曲のレコードを手に入れるのはきわめて困難だった。昭和20年に亡くなった作曲家で、当時はまだ「現代音楽」だったからね。それに、作曲者の著作権が生きていたので、演奏すると著作権料を支払わなければならず、敬遠されていたのだと思う。それでも、あれやこれや手に入れて聴いた。
 そんな風にしてバルトークの音楽を聴き込んでいるうちに、『ビオラ協奏曲』は、彼としてはたいした曲ではないことがわかってきた。最高傑作は、『弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽』だと私は思う。しかし、これは、きわめて深刻な曲なので、あまりしばしば聴かない。「よく出来た曲」と「好きな曲」は違うんだ。しばしば聴くものということになると、3曲のピアノ協奏曲かな。なかでも、『ピアノ協奏曲第三番』は、古風でメロディアスでノスタルジックで、とてもとても美しい曲だから、誰でも好きになるんじゃないかと思う。



母と息子
2001年06月06日(水)

 パートナーさんの息子(前の夫の子ども)は、学校を出て就職して、別に住んでいる。数日前、ふらっと帰ってきて、一泊してすぐに出て行った。いつもそんな風で、休日に予告もなく帰ってきて、また予告もなく出て行く。母親と祖母は、帰ってきたら大喜びであれこれ話しかけたりもするしご馳走もする。彼のほうは、喜ぶでもいやがるでもなく、淡々と彼女らとつきあって、帰る日の朝、愛想もなにもなくふらっと出て行く。
 男の子が自立するというのは、母親なしで暮らせるようになるということだと思うのだが、母親のほうは息子なしで暮らす覚悟はできていないので、あれこれつきまとうことになる。もちろん親切でつきまとっているのだが、息子のほうは、無理やり努力してでも母親と距離をとらないと、いつまでも自立できない。そこできわめてそっけなくふるまうのだ。
 私もそういう息子を長らくやってきたので、息子の側からこの事態がどう見えるかはよく知っているつもりだ。息子は、母親が愛情で動いているし、いささかの悪意もないことがわかっていて、それで余計に困るのだ。そこで、必要以上にそっけなくしてみたり、ときに腹を立ててみる。それしか母親を遠ざける方法がないと思うから。もっとも、意識的にそう思っているとはかぎらないが、すくなくとも精神の全体的な流れはそういうことだ。
 しかし、母の側からどう見えるかは、自分が息子をやっているときにはよく見えなかった。こうして外から母と息子のやりとりを見ていると、はじめて自分の母親がこういう事態でどう考えどう感じたかがわかる気がする。母親が「私はよい母親だ」と感じることができたのは、子どもを援助できていたからだと思うのだが、援助する必要がなくなったとき、「私はよい母親だ」と感じることができなくなるんだね。
 しかしまあ当事者ではないので、母親の心の動きを正確にたどれているかどうかは保証できないが。いずれにせよ、母親はひどくさびしがっている。しばらく話を聴いてあげなくては。



猫と飼い主
2001年06月07日(木)

 猫は犬と違って飼い主に媚びないといわれている。パートナーさんは猫を二匹飼っているが、実際、パートナーさんと私が一緒に旅行に出たりして、数日ぶりに帰ってくると、なつかしがるでもなく、玄関あたりをそしらぬふりで通り過ぎていったりする。彼女は「これが犬だったら、ちぎれるぐらい尻尾を振って『おかえりなさい、どこへ行っていたんですか、さびしかったですよ』という感じで喜ぶのに、猫は本当に愛想がないわね」と言ったりする。猫たちは私を飼い主だとは認知していないので、私一人が帰ってきても知らぬふりをするのはもっともだが、明らかに飼い主と認知している彼女に対して、あまりにもそっけないと、私も思っていた。
 ところが、私が家にいて彼女が外から帰ってくるときの様子をよく観察すると、彼女に関係する物音を敏感に聞き分けるようで(残念ながら、なにを手がかりにしているのかわからない)、二匹とも二階から玄関まで走って下りていって、その上で、あらためて知らないふりをするのだ。彼女は、猫が知らないふりをするまでのプロセスを知らないし、私が言わなければ一生知らないままだろう。
 昨日は、息子が、自分が去った後、母親がどのようであるかを知らない話をした。5月10日の「『ない』の論理学(4)」にも同じようなことを書いた。どうも、最近そのことを気にして生きている。
 私は攻撃的な人格で、しばしば人の気を悪くさせているらしい。だから、私のいないところで、私の悪口を言う人がきっといるに違いないと確信している。ただ、「無実の罪」だとはまったく思わないので、その点で精神病でないだけで、思考内容は妄想型分裂病(統合失調症)者の妄想と選ぶところがないかもしれない。ほんとうのところを知ることは決してできないのだと思うと、面白いものだと思う。私だけがそうなら、不当だから怒ることもできるが、すべての人がそうなのだから、笑うしかない。
 私の悪口を言っていた人が、私があらわれた途端に知らないふりをするのは理解できるが、猫は、どうして知らないふりをするのだろう。およそ動物の行動は基本的には合目的的であると信じているので、そうする方がメリットがあるに違いないと思うのだが、そのメリットがなんなのだかよくわからない。

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