野田先生の質疑応答
Q673
死にゆく人が子どもである場合、子どもの年齢によっても違うと思いますが、その子どもに対する勇気づけ、親に対する勇気づけについてお聞かせいただけますか?
A673
昔ねえ学生時代に体験があるんだけど、学生の実習で小児科へ行ったんです。脳腫瘍の12歳の女の子がいて、僕は学生ですが先生のフリをしていくんです。向こうは学生だと知っていますから、「2週間あなたのところへ来ます」と言ったら、「先生お願いがあるんです。私は癌でもうすぐ死ぬの」と言う。「知ってます」と言ったら、「親がそのことをたぶん知らないから親にそのことを言わないでね」と言うの。そのとき、小児科ってイヤな仕事だと思ったんです。小児科は絶対しないでおこうという決心をする契機なったんですが、その年齢の子どもって、自分が死ぬことにそんなに動揺しないんです。死ぬということをほんとの意味でリアリティーを持って捉えていないのかしら。われわれが死ぬことに対して動揺するように子どもたちはしないと思う。まわりの親が動揺すれば子どももしますけどね。だから子どもに対する勇気づけって、あんまり考えなくていいんじゃないかと思う。われわれの時代の親たちや医療従事者がセンチメンタルになりすぎているだけだと思う。それから親に対しても、子どもが死ぬのは気の毒なことではあるけれど、むしろ子どもが全員大人になるほうが不思議なことなんだというのをもう1回思い出してほしいんです。乳幼児死亡率がとても高くて、10人子どもが生まれて2人が大人になるというのが、ついこの間まで普通のことだったんです。ところが公衆衛生と小児医療の発達で、今は生まれた子どもが全員大人になって当たり前だと、僕らが思い込みすぎているんですけど、そうじゃないんだって。本来子どもっていうのはそうやって死んでいくように、そもそも遺伝子が主として設計されているわけ。やっぱりエラーがあるんです、変な言い方だけど。子どもは全員うまく生きていけるように完成品としてできてくるわけでなくて、強い子もあれば弱い子もある。弱い子が死んでいくというのは、われわれの力を超えた自然の法則なんです。そこに対して僕たちもうちょっと謙虚になったほうがいいと思うの。これもやっぱり権利意識ね。子どもの生きる権利だとか、人間の生きる権利だとか、誰に向かって主張しているんだ?それを。自然の摂理に向かってそんなもん主張できませんぜ。そのへんが現代の僕らの思想の偏差なんですよ。だから私も、これは子どもが難病だったりその他の原因で死んでしまった子どもの親たちによくつきあうんだけど、まず死んでいくということを受け入れてほしいんです。その子たちが遅かれ早かれ死んでいくだろうって。で、死んでいくその日まであなたにできることがあるだろうと。延ばすことだけが親が子どもにできることはないんですよ。毎日の暮らしをどうしていくかが親にできることだと思う。生き残っている子だってそうなんです。僕ら凄い油断して毎日暮らしていて、今日のように明日があり明日のようにあさってがあると思い込んでいるんです。そんなことないかもよ。今朝あなたがたは子どもさんと一緒にご飯を食べたでしょうが、今日帰ったら子どもたちは死んでるかもよ。そうなんですよ。いつどんなことがあるかわからないんです。だから逆に言うと、1回1回ごとの食事だとかお話だとか一緒にお風呂に入るとかが貴重な時間なんです。そういう思い出し方をしてほしいんです。こういうのを言葉のとても正確な意味で“一期一会”と言うんです。1回だけ会うというのは、実は遠いところから来た人と会うわけじゃなくて、毎日出会っている人たちとたった今会って、次の瞬間には別れるかもしれない定めの中に人間がいるから、だからもうちょっと大切に暮らしたいんです。そうすると、子どもが今から死んでいくとか、今から死んでいかないで元気なのと何も関係ないじゃない。自分が死ぬことについて午前中に言いました。私が死ぬということに対する備えはいつもしておくんだ。家はきれいに片づけておくし、手紙はちゃんと書くし、会いたい人とも会っておこう。それは、これから死ぬからと急にバタバタとやることじゃないんだ。となると、家族が死んでいくからといって急にバタバタやることはないんで、普段丁寧におつきあいなさればいいんだと思いますし、これから死んでいくからといって何か特別しないといけないとしたら、普段の覚悟が足りないわけね。いつも丁寧に勇気づけてつきあえればいいと思うから、死にゆく人が子どもであろうと、じいさんばあさんであろうと何も変わりないと思う。