野田先生の補正項から
法の無常(2)
2001年06月15日(金)
世界には法則性があるのだろうが、その法則性はきわめて複雑なもので、われわれはその全貌を知りえないのだと、なんとなく思っている。
たとえば、気象についての法則性がもっと詳しくわかれば、明日の天気はもっと正確に知ることができるようになるかもしれない。しかし、明日のお昼頃に出る雲の形がラクダさんに似ているかゾウさんに似ているかは、永遠に予測できないと思う。雲の形は非線形な現象だし、しかも要因の数が多すぎるので、単純な法則は成り立たないと思うのだ。
われわれが知っている法則は、世界に成り立っている実際の法則(そんなものがあるとすればだが)の荒っぽい近似写像なのだろう。自然科学の法則もそうだし、仏教の法もそうなので、要するに、われわれの主観の側にある認知枠であって、客観世界の「真理」ではないのだ。だとすると、仏法と同じく、自然科学の法則だって無常なのだ。実際、19世紀までは古典力学という認知枠で世界を見ていたが、20世紀になると相対論や量子力学でも世界を見るようになった。「19世紀にも相対論や量子力学の法則は成り立っていた。ただ、人がそれを知らなかっただけだ」と主張する人がいるかもしれないが、だからどうなのだ。そうだとしても、19世紀の人は古典力学という認知枠でしか世界を見ることができなかったのだから、相対論や量子力学はその時代には存在しないのと同然なのだ。知らない認知枠で世界を見ることはできないからね。
仏法もそうなので、ゴータマが言葉にして、それをわれわれが学んで、ゴータマが「保持していた(dharma=法)」認知枠をわれわれが手に入れて、そうして世界を見ると、ゴータマが見ていたように世界が見えるわけだが、それ以前には世界は違った風に見えていた。じゃあ、迷いの時代の世界と悟りの時代の世界と、どちらが本当の世界かというと、どちらもその時代の認知枠から見れば本当の世界で、迷いだから間違っているわけでもないし悟りだから正しいわけでもない。ただ、昨日書いたように、悟りの世界を作り出す認知枠(法)は、道徳的生活を可能にするので、われわれの生活がイージーになるのだ。
法の無常を認めるということは、複数のパラダイムの存在を認めるというのと同じことで、宗教に関していえば寛容につながる。「唯一絶対の永遠不変の法」などというものをふりかざしてしまうと、やがて信じない人を火あぶりにしたくなるだろう。
精神鑑定
2001年06月16日(土)
むかし『家庭裁判所月報』に論文を書いたことがあるのだが、精神鑑定をするとき、記述精神医学に則ってすべきであって、力動精神医学の知識を持ち込んではいけないと信じている。
といっても、精神科医以外にはなんの話か皆目わからないだろう。記述精神医学というのは、症状を記載して、そこから病名分類をする、ふつうの精神医学だ。妄想があって幻聴があって、しかも意識清明なら、精神分裂病(統合失調症)だけれど、意識混濁があればせん妄だとか、抑うつ気分があって午前中それが強く午後になるとマシで、早朝覚醒があればうつ病だとか、抑うつ気分はあるけれど日内変動がはっきりしないと神経症じゃないかとか、内科学と同じ論理で診断をする。これはそれなりに科学的だ。定説として、重度の精神分裂病(統合失調症)や、意識混濁をともなうせん妄状態では、責任能力がないということになっているので、診断がつけば、そこから責任能力について判断ができることになっている。
これに対して、力動精神医学というのは、いわゆる深層心理学で、とくにフロイトの流れの精神分析学の影響を受けた精神医学だ。これは、子ども時代の体験から現在の行動を説明しようとしたり、無意識の中に想定された葛藤から現在の行動を説明したりする。たとえば、「子ども時代の子育てが間違っていた結果、性格にひずみが生じて、その結果、現在犯罪を犯した」というような理屈をこねる。しかし、そうだとすると、犯罪は本人の責任じゃなくて、間違った子育てをした親の責任だということになる。この方法を適用すると、ほとんどのケースが責任無能力になってしまう。
力動精神医学は科学ではない。それは、そうであるともそうでないとも証明できない思弁であるにすぎない。そういうものを精神鑑定の根拠にしてはならない。しかし、裁判官はそういうことを知らないかもしれないので、だまされてしまう危険がある。困ったことに、そういう傾向の鑑定文が存在するようだ。原文を読んだわけではなくて、新聞や雑誌が言うところから想像しているだけだが。
アドラー心理学だって、力動精神医学の一種なので、私が鑑定書を書くときには、いっさいアドラー心理学の知識を持ち込まない。オーソドックスな記述精神医学だけで書く。それは当然のことだと思っていたが、そう思わない非常識な精神科医がいるようだ。
精神鑑定(2)
2001年06月17日(日)
昨日の話の切り出しはちょっと唐突すぎたなと反省している。最近、アメリカの影響なのか、刑事事件で弁護士たちが精神鑑定を武器に使いすぎる風潮があるように思うし、さらには犯人がみずから精神病を口実に責任無能力を言い立てる事件さえあって、困ったことだと思っている。そこに力動精神医学的な、非科学的でしかも安易に責任無能力という結論を出してしまう鑑定が合体すると、どうしようもないことになるのではないかと心配して、昨日のようなことを書いた。
力動精神医学の悪口を言ったついでに、彼らの人格障害の診断の問題点についても言いたいことを言っておこう。精神鑑定と直接の関係はないのだが、鑑定でこういう診断名がつくと新聞が書くし、書くと「そういう病気があるんだ」と人々が思うし、そうなると社会的影響もあるから、一応は専門家の端くれとして書いておいてもいいかなと思う。
「境界型人格障害 borderline personality disorder」だの「自己愛人格障害 narcissistic personality disorder」だのといった診断名がときどき話題になる。これらの出典はアメリカ精神医学会が定めた『精神科診断統計マニュアル(DSM)』なのだが、その制定の際に、激しい議論になった診断名だ。というのは、両方とも、フロイト系統の力動精神病理学に立脚していて、フロイトの考え方を認めない精神科医には、たえられないほど非科学的な名称だからだ。境界型については、「安定性不安定人格障害 stable instability personality disorder」という、なんだか洒落みたいな、しかし本質をなかなかよく言い当てている代替案もあったのだが、結局は多数決でフロイト派が勝ってしまった。
アメリカではフロイトの系統の精神病理学者が多数派なので、仕方がないといえば仕方がないのだが、なんでも対米追従の日本人は、ほとんど無反省にDSMを診断基準として採用して使っている。そうしているうちに、境界型人格障害だの自己愛人格障害だのといった概念が社会に流布して、あたかもそういうものが実際に存在しているかのように人々が思い込み、若い精神科医たちも、症候群としてそういうものを認めるだけでなく、その背後にあるフロイト流の力動精神病理まで事実として認めてしまう傾向があるように思う。これは、かなり困ったことではないかと思っている。
アドラー派は、創始者以来遺伝的にフロイト嫌いなので、私が言うことには極端な偏向があるのは認める。しかし、こういうことを誰かが言っておくと、議論のネタになっていいんじゃないか。
法の無常(3)
2001年06月18日(月)
いちおう仏教学科に在籍したこともある身としては、言いたい放題を言うのではなく、ちゃんと経証(聖言量)をあげるべきだと思う。私が「法の無常」ということを言うのは、チベットの学僧タルマリンチェンの『宝性論』への注釈(Rgyal tshab Darma rin chen: "Theg pa chen po rgyud bla mahi tika")に、次のようにあるのによっている。
法身は二種であると知らるべきである。すなわち、1)本性清浄にして客塵の垢れをことごとく清浄にした善無垢の法界を現観した真実証智としての法身と、2)教法として法界より等流しての法身である。(小川一乗『仏性思想』文栄堂 p.35)
「な、なんなんだぁ、これ!?」という声がたくさん聞こえてきそうだ。ごめんね、チベット人の書く文って、こんな風なんです。慣れると、どうってことないんだけどね。
1の、「真実証智法身」というのは、ブッダが「保持するもの(dharma)」としての智慧のことであり、2の「等流法身」というのは、その智慧が言葉になった教法のことだ。この解釈は、私の恣意ではなく、タルマリンチェンのこの本に注釈をされている小川一乗先生も、
宝性論において、「如来の法身」といわれるときの法身とは、本性清浄なる如来の智慧そのものとしての法身と、その智慧の世界としての法界より等流してわれわれの認識対象となっている思想言語において具体的に与えられている教法としての法身ということである。(前掲書 p.35)
と書かれているので、私と同意見だ。日本仏教では、「法身」というと、「宇宙に満ちあふれる真理」みたいな感じでとらえられることが多いのだが、チベット仏教では、真理(善無垢の法界)についてのブッダの正しい理解(現観した真実証智)と、それを言葉で説明した教法というように、きわめて具体的に理解されている。そうなると、ブッダの身体は無常なので、その理解も身体が消滅すると同時に消滅するし、教法は伝承する人がいなくなると消滅する。だから、「法は無常」なのだ。
次に、「法とは縁起である」という主張については、「縁起を見るものは法を見る」という古い経典の文句で十分な気もするが、せっかくチベットの文献を引いているので、聖言量をタルマリンチェンからも引いておく。
かの如来と呼ばれているものの相続である本性清浄分と、有情の相続である本性清浄分との両者には、青色と金色の如き差別のないことを意趣して、“一切有情は如来蔵を有する”と明らかに釈されたのであるから、従って、如来が有情の相続の中に内在すると主張するのははなはだしい非仏教的な見解である。(前掲書 p.36)
ごめんね、これもわけのわからない文に見えるだろうね。要するに、「ブッダにもわれわれにも、同じように『本性清浄分』というものがあるので、そういう点で、われわれとブッダの本質は同じだ」と主張しているのだ。じゃあ、「本性清浄分」って何なんだろう。これがわからないとどうにもならない。小川先生は、次のように注釈される。
“本性として”とは、“本来的に、もとより”という意味であり、“清浄である”とは、”縁起的存在であり、その本質は空性である”という意味である。従って、「心性清浄」ということに対する大乗仏教としての説明は、“およそ心といわれるほどのものは縁起せるものであり、本来的には空・無我である”ということであらねばならないであろう。(前掲書 p.18)
これはきわめて妥当な解釈だと思う。だから、ブッダの精神も縁起の中にあり、われわれの精神も縁起の中にある。その点ではブッダもわれわれも変わりがない。ただ、ブッダは、「本性清浄にして客塵の垢れをことごとく清浄にした善無垢の法界を現観した真実証智」を持っているが、われわれは持っていない。つまり、ブッダはみずからが縁起の中にある空なる存在であることを知っているが、われわれは知らない。こうして、ブッダの属性(=保持しているもの)としての法は「本性清浄=一切法縁起生=一切法自性空」についての如実智であることになる。証明終わり。
ところで、先の引用中に「如来が有情の相続の中に内在すると主張するのははなはだしい非仏教的な見解である」とある一節は、なかなか素敵だ。日本仏教はそう信じてやってきたのだが、チベット仏教徒から見ると「はなはだしい非仏教的な見解」に凝り固まっているんだ。