MENU
63,718

スレッドNo.73

論語でジャーナル

8,孔子曰く、君子に三畏(さんい)あり。天命を畏(おそ)れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮(あなど)る。

 先生が言われた、「君子には三種の敬虔さが要求される。天命に対して敬虔であり、大人(たいじん)に対して敬虔であり、聖人の言葉に対して敬虔であるということである。小人は天命を解しないのでこれに敬虔でなく、大人(たいじん)に馴れ馴れしくずうずうしくなり、聖人の言葉を軽視する」。

※浩→「畏」はここでは「恐怖」でなく「敬虔の情をもって対すること」です。的確には、敬虔の感情を伴った「憚りの意識」と、貝塚先生。
 第一は、「天命」に対して敬虔。この世界には、合理的な法則が流れていて、それは合理的であるゆえに統一を保ち、人間にとって可解です。その意味では天の与える使命として理解されます。それとともに、人間の世界には、統一した法則からはずれたような、不可解なことがらが起こるが、それをも結局、人間は天の与えるものとして受け取る。その意味では天の与える運命です。それらを総合した観念が天命です。君子はまず、こうした「天命」を意識して、それに対して敬虔でなければならない。
 第二は「大人」に対して、第三は「聖人の言」に対して敬虔にということです。「大人」は『易経』にはよく出る言葉だそうですが、『論語』ではここだけに登場します。解釈は二通りあって、古注は「優れた道徳者」、新注は「高位の人」だそうです。
 君子が上のようであるのに対して、小人はその逆です。天命を意識しないから、それに対して敬虔でなく、大人に対しても馴れ馴れしくぞんざいな態度をとり、聖人の教えを侮辱します。以上は吉川先生の解説です。貝塚先生は、現代の支配者を批判されます。すなわち、日本人は無宗教であると言われる。そのことは、人間を超越するものを信ぜず、敬虔の感情を持たないということである。中国のかつての支配者は、天に対して敬虔であった。西洋の支配者は神に対して敬虔であった。日本の現代の支配者は自分より強い権力者は恐れるが、私(貝塚先生)はこういう権力者の感情と行動とに対してあわれみを感じる。
 貝塚先生、鋭いです。「天皇」とか「天子」とかは中国の天命思想にもとづく敬称ですが、現代ではスピリチュアルな面がすっかり廃れてしまいました。今や皇室は芸能人なみにメディアや国民によって扱われているようです。他の国々では、その国古来の文化が若者たちによってもしっかり継承されているのに、この国では「古典芸能」などはごく一部の人に受け入れられているだけで、お芝居も歌もまるで「国籍不明」です。第一、歌なんかスピードが速すぎて、歌詞を理解することすら困難な有様です。そして、いくら流行しても、3か月か半年もすればすでに忘れ去られています。「ユーエスエー!カモンベイビー、アメリカ──」があれほどヒットしたのに、今はまったく耳にしません。あれは、コロナ前でした。

引用して返信編集・削除(未編集)

このスレッドに返信

このスレッドへの返信は締め切られています。

ロケットBBS

Page Top