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スレッドNo.731

野田先生の補正項から

外傷神経症(2)
2001年06月21日(木)

 昨日の話の続きだ。PTSDが実は神経症だとわかると、私にも手のとどく話題になる。つまり、ふたつの要因があって、ひとつはその人の認知構造(cognitive framework)であり、もうひとつはその人がおかれているコミュニケーション構造だ。認知構造について荒っぽくいうと、その人が「安全だ」と確信していればPTSDにならないし、「危険だ」と確信していれば症状が出る。これにはコミュニケーションも関与していて、まわりの人が「安全だ」と言いつづければ認知構造は「安全だ」に傾くし、「危険だ」と言いつづければ「危険だ」に傾く。これは、まったく常識的な考え方だと思うのだが、どうだろうか。
 さて、そうだとすると、大阪教育大学付属小学校事件のようにみんなが「心の傷が症状を出すだろう」と言いつのれば、実際に子どもに症状が出るだろう。これは洗脳や催眠と同じだ。なんどもなんども、さまざまな人が言えば、それが個人にとっての現実になってしまうのだ。マスコミの騒ぎ方も、学校の対応も、そういう点できわめて望ましくない方向に向いている。
 なかでも腹が立ったのは、ある有名なフロイト派の精神科医が、テレビのインタビューで、「今のところはなにもなくても、思春期になってから症状が出るかもしれない」と言っているのを見たときだ。あれでは子どもたちとその親に「呪い」をかけているのと同じじゃないか。きわめて反治療的だ。もし何年も後に神経症症状が出たとしても、その症状と今回の事件の因果性は立証できない。つまり、症状が出る人は、今回の事件がなくても、神経症になったのかもしれない。人口の何パーセントかは、思春期に神経症になるからね。外傷体験を経験した人を十年以上追跡調査をして、神経症発症率が高いという研究でもあれば信じるかもしれないが、そんな研究はもちろんない。
 「被虐待児童や災害被害者などについては、そういう研究があるのではないか」と思う人がいるかもれないが、今回の事件とは状況が違う。つまり、被虐待児童は持続的に虐待されているし、もし親から切り離されれば孤児になってしまっているわけだ。今回の大教大付属小学校の児童は、事件は一回だけだし、その後の日常生活では外傷的なできごとはおこっていない。したがって、性質がまったく違う。また、災害被災者についても、災害後の長期間、ストレス事態が持続している。たとえば、阪神大震災に被災した8千人の小中学生に対する質問紙調査[1]をみると、震災4ヵ月後や6ヵ月後では「恐れ・不安」も「抑うつ気分・身体化反応」も非被災児童よりも反応数が有意に多いが、2年経つとコントロール群と差がなくなっている。これをどう説明するかだが、正常な反応だと言えば言えるんじゃないか。震災後1年間の瓦礫の中で暮らして、不安にもならず憂鬱にもならずに暮らせるほうが神経症的じゃないか。つまり、災害についても、その被害が持続してる間のデータでもって、後遺障害についてものを言うことはできない。
 さて今、われわれが大教大付属小学校の子どもたちに向かってしなければならないのは、「世の中には悪い大人も少数いるけれど、いい大人もたくさんいるよ」とか「死んだ子どもたちはかわいそうだったけれど、生き残った君たちは、あの子たちの分までしっかり遊んでしっかり勉強して、しっかり生きていかなければいけないね」と言ってあげることだろう。つまり、よい認知を与えるようなコミュニケーションの中に子どもをおくことだ。子どもたちを過保護にかばってはいけない。そんなことをすると、それこそ神経症発症率が増えるだろう。

 [1] 植本雅治・高宮静男・井上浩「阪神淡路大震災が子どもたちにもたらした精神医学的影響とその経過」『臨床精神医学』29(1):17-21,2000.

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