野田先生の補正項から
数学は好きなのか嫌いなのか
2001年07月15日(日)
高橋昌一郎『ゲーデルの哲学』(講談社現代新書)を読んだ。数学者クルト・ゲーデルは、「自然数論において、真であることはわかっているが、自然数論だけを用いては証明できない命題が存在する」という定理(不完全性定理)を証明したのだが、前半はこの定理の解説だ。不完全性定理の解説は、これまでにも何冊か読んだが、さっぱりイメージがつかめなかった。この本で、いくらかイメージはつかめたが、厳密な証明はあいかわらず理解できない。頭が悪いんだね。
学生時代には、数学は苦手科目の筆頭だった。しかし、物理学は得意科目の筆頭だった。数学の教師が悩んで、「君は物理がこんなにできるのに、どうして数学はこんなに駄目なんだ?」と尋ねたが、私には答えようがなかった。今になって考えるに、数学については、「なぜこんなことをするのか」という目的がわからなかったのだ。物理は、目的がきわめて明確だ。目的さえはっきりしておれば、どんな厄介な計算だってしてみる気になる。「自然数論だけを用いて証明できない自然数論の真なる命題がある」というようなことを、なぜ手間ひまかけて証明しなければいけないのか、当時もわからなかったし、今もよくわかっていない。しかし、大学を出てからは、暇つぶしにそういうことを考えるのも悪くはないなと思うようになった。だって、試験がないものね。
そういうわけで、数学の本をときどき読む。父は医学部に入る前は理学部数学科にいて、複素数論かなにかを研究していた人なので、遺伝因子がないことはないのだろう。数学そのものは今でも苦手意識があるが、心理学を考えるとき、きわめて数学的に考えているなと自分では思っている。それは、「数量的に」という意味ではなくて、「公理論的に」という意味だ。むしろ、数量的に考えることは反数学的だと思っているふしさえある。公理論的にものを考えることができるようになるためには、数学の本を読む必要がある。そう思って読むと、きわめて抽象的な数学理論も、けっこう楽しんで読める。
液晶が破れる
2001年07月16日(月)
旅先にもって歩いているDynaBookがあるのだが、土曜日に、広島に行ったときに開いてみたら、液晶画面に黒い木の葉のような模様が見える。表面には傷はないのだが、内側になにかがおこっているようだ。スイッチを入れると、そこだけ明るくならない。手で触れると、木の葉の周辺が動く。虹色の隈取もつく。長さ7~8センチ、幅3~4センチの木の葉の部分は暗いが、他は見えるので、しなければならない仕事はなんとかできた。しばらくしてまた開くと、木の葉の位置が移動している。どういうことなんだろう。
今日、販売店に持っていって修理を依頼したが、窓口のお兄さんも、こんな故障は見たことがないという。保証期間内なのでよかった。とにかく修理に出す。8月にパラオ島にダイビングに行くのだが、そのとき持っていって、水中デジカメで撮った写真を見ようと思っていたのに、それまでに帰ってくるかなあ。
理性の限界
2001年07月17日(火)
高橋昌一郎『ゲーデルの哲学』(講談社現代新書)によれば、ヴィトゲンシュタインはゲーデルの「不完全性定理」を気に入らなかったようだ。
ウィトゲンシュタインの『数学の基礎』は、不完全性定理を「矛盾に直面した数学者の迷信的な恐怖と畏怖」とみなしている。(中略)ウィトゲンシュタインはこの〔不完全性定理の〕帰結を「無意味」とみなし、ゲーデル命題を「命題ではない」と考えたわけである。(中略)後にウィトゲンシュタインの見解を知ったゲーデルは、不完全性定理を、「ウィトゲンシュタインが理解していない(あるいは理解していない振りをしている)ことは明らかです。(中略)」と述べている。ゲーデルは、ウィトゲンシュタインの分析そのものが、「無意味と思えます」とも述べている。(p.131)
「自然数論において、真であることはわかっているが、自然数論だけを用いては証明できない命題が存在する」というゲーデルの不完全性定理を拡張すれば、「われわれが考えうるかぎりの理性的命題の全体の中には、真であることがわかっているのに、理性では証明できない命題がある」という主張になる。つまり、理性(的推論)には限界があるのだ。じゃあ、証明できないのに真であるとわかっている命題とは、どういうものだろう。それは、理性を超えているのだから超越的な真理であり、別の言い方をすると神秘的な真理であることになる。
ヴィトゲンシュタインは、「語りうることは、すべて明晰に語りうる。語りえないものが存在する。それが真理である。語りえないものについては沈黙しなければならない」というフレーズで、理性(=論理的言語)の限界を指摘しつつ、一方で神秘の存在を肯定したのだと、私は理解している。そうなると、ゲーデルもヴィトゲンシュタインも、理性の限界と超越的真理の存在について考えていたのに、どういうわけか折り合えなかったのだ。ヴィトゲンシュタインがゲーデルのどういう点が気に入らなかったのか、あるいはゲーデルがヴィトゲンシュタインのどういう点が気に入らなかったのか、しっかり考えてみようと思っている。これは、「科学とはなにか」ということを考えるとき、かなり重要な課題だと思う。
夏空
2001年07月20日(金)
午後4時前の新幹線で、新大阪から東京に向かった。東海道はずっと、真っ青な空に、あるいは多くあるいは少なく、はじめは白くやがて夕映えの、雲が浮かんでいた。何年に一度か、こういう空を見る。ふだんもあるのだろうが、町中にいるときは、雑事にまぎれて、それがあっても気づかないことが多いのではないかと思う。たとえば山にいて他になにも見るべきもののないとき、こういう空の青さに気づいて、今生でこういう日に出会えたことに深々と感謝する。
最初にこういう空を見たのは、たぶん3~4歳のころだと思う。ある日、庭に植えてあった背の高い青桐の向こうに真っ青な空を見た。ただその風景しか覚えていない。私にとっては、この世界のいちばん基本的な背景が、そういう空なのだ。
これは今の季節のことではないが、こういう空を見ると、伊東静雄の「夏の終り」という詩を思い出す。
夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
気のとほくなるほど澄みに澄んだ
かぐはしい大気の空をながれてゆく
太陽の燃えかがやく野の景観に
それがおほきく落す静かな翳(かげ)は
……さよなら……さやうなら……
……さよなら……さやうなら……
いちいちさう頷く眼差しのやうに
一筋ひかる街道をよこぎり
あざやかな暗緑の水田の面を移り
ちひさく動く行人をおひ越して
しづかにしづかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり
……さよなら……さやうなら……
……さよなら……さやうなら……
ずっとこの会釈をつづけながら
やがて優しくわが視野から遠ざかる
これは、昭和21年の作品で、敗戦後の、詩人の心象風景であろう。それを私はわずかに共有できる。場所は、かつて詩人が住んでいて、いま私が住んでいる堺市の界隈だろう。こういう詩を知っていることが、ある日の列車の窓から見た空を、それを知らないときに見るであろう空とは違ったものにする。それが文学の力というものだ。