野田先生の補正項から
サルは絵を描かない
2001年08月16日(木)
この間からなんとなく考えているのだが、サルは絵を描かないように思う。サルの心理学についてちゃんと勉強したわけではないのでわからないけれど、今まで、サルが絵を描くという話を聞いたことがない。
サルは絵文字が識別できるようになるのだそうだ。絵文字が識別できるのに、どうして絵を描かないのだろう。いや、単独の絵文字を他の絵文字と区別するだけのことなら、刺激弁別に過ぎないから、魚だって学習する。水族館のイシダイが数字を識別しているのを見たことがある。(もっとも、サルは絵文字を区別できるだけではなくて、絵文字を文法に従って組み立てられるので、イシダイよりはよほど賢いようだが)。
そもそも、サルは絵を認知できているのだろうか。つまり、絵と、そこに描かれている実物を、対応させて認知しているのだろうか。わが家にネコが2匹いるが、彼女らは絵は認知できていないように思う。たとえば、魚の絵や魚の写真を見せても、魚だとは思わないようだ。TVで魚が泳いでいると、いくらか関心を示すが、それも、魚だと認知しているかどうか怪しくて、形態とは関係なく動くものに興味をもっているだけかもしれない。厳密な実験をしたわけではなくて、素朴な観察データにすぎないが、たぶん当たっていると思う。サルも同じレベルなのだろうか。
もしサルが、絵を描かないだけでなく、絵と実物との対応を認知できないなら、人間とは脳の構造が根本的に違っていることになる。逆に言うと、人間の脳は、絵を描くとか、絵と実物の対応を認知できるとかいう点で、他の動物とは違った特質をもっていることになる。絵を見て実物と対応づける力は、実物から抽象的な特質を引き出す力だ。これは、人間の抽象的思考能力の基礎になっていると思う。
そのことは、おそらく諸刃の剣で、「世界を絵として認識できる」ということは、「絵としてしか世界を認識できない」ということでもある。絵は、あくまで地図であって現場でない。人間の間違いが、しばしば、世界を絵として認識することと関係しているように思う。すなわち、地図を現場だと思い込むことに起因しているように思う。
サルが絵を描かないということについて、私は最近不思議に思ったのだが、きっと誰かが昔に研究しているんだろうな。探してみよう。
文体の力
2001年08月17日(金)
たまたま書店で、小森陽一他編『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)という本を買って、なんとなくパラパラと読んでいた。例の、「新しい歴史教科書をつくる会」というところが作った中学校用の歴史教科書に対する批判書だ。
中に、「あれっ」と思う文体の文章があった。内容ではなくて、日本語の書き方が変わっているのだ。たとえば、次のような文体だ。
さて、「自分の国の歴史に自信を失うということが、ずっとおこらない国だったが、ここ半世紀は必ずしもそうとはいえない時代になってきた」、と教科書の書き手はいいます。まさに底意にあふれたもの言いですが、確実なところ、なにをいいたいのでしょう?(中略)日本人が自信をもっていた時代として、教科書の書き手が超国家主義から侵略戦争にいたった時代を考えているのなら、それこそはアジアに大きい人間的悲惨をもたらしたのであったし――南京虐殺についてはこの教科書に数値をあげずに書かれ、朝鮮人慰安婦と七三一部隊については書かれていませんが――、日本人自身にも荒廃をもたらしました。
その軍隊の犯罪を、日本人として学び反省することが、どうして日本の子供に自信を失わせ、その誇りをなくさせるのか?それが私にとってずっと理解できない、日本の新しいナショナリストたち、つまりこの教科書の書き手をもふくむ勢力の論点です。過去の歴史においておかした誤ちを認め、未来においてそういうことをやらない日本人へと、現在において自分をきたえることが、自信と誇りをかちとるための、なにより自然なやり方じゃないか、と私は思います。そうではないでしょうか? (pp.180-181)
論理的であるべき問題を扱うにはあまりにも情緒的な文章だが、それはそれとして、「語りかけ」として実にいい。同じ問題を別の著者が書いているときの語り口は次のようで、これはふつうの日本語だ。
かくして、日本人の傷痕を癒し、日本人が独立心を失ってしまうのを防ぐために、この教科書が提案するのは、占領期に切断された日本の歴史をつなぎなおそうということです。そしてそのために、「大東亜戦争」を罪悪感と反省の意識をもって振り返る姿勢から日本人を“解放”しようというのです。
「つくる会」の論理を復元するなら、戦争に敗北して日本人が自信を失ってしまった以上、もう一度戦争をして勝たない限り、改めて自信を取り戻すことはできないことになります。その意味で、この教科書は、明確な「好戦史観」に貫かれた、きわめて危険な思想を中学生に教え込もうとしているといえます。当然のことながら、戦争をして勝たなければならない相手はアメリカですから、「つくる会」が夢見る戦争には現実性は一切ありません。だからこそ、彼らは必死で過去の「大東亜戦争」を肯定的に描き出そうとしているのです。(中略)このような論理に支えられて、「大東亜戦争」とそれに連なる一連の過去が、現在の批判から解放され、過去におけるひとつの必然として肯定されるにいたるのです。しかし、過去の考えに対する肯定をひたすら積み重ねることからは、未来への展望は決して開けません。この教科書は、敗戦後五十余年の歴史をすべて否定し、そして現在をも否定しています。けれども、そのような思考停止からは、未来に対する展望が生まれることはないのです。この教科書の最大の問題点は、ここにあるといっても過言ではありません。(p.93)
これも論理に飛躍があって情緒的な文章だが、先の文章のような、語りかけてくる力がない。だから、論理的にきちんと反論してみようかなという気になる。しかし、先の文章は、文体の力で煙にまかれて、当方の論理的な力が働きにくくなる。誰が書いたのかというと、大江健三郎だ。文章の力というのはすごいな。飛躍の多い論理でも、つい説得されてしまいそうになる。