MENU
63,718

スレッドNo.75

論語でジャーナル

9,孔子曰く、生まれながらにしてこれを知る者は上なり。学びてこれを知るものは次ぎなり。困(くるし)みてこれを学ぶは又た其の次ぎなり。困みて而も学ばざるは、民にして斯(こ)れを下(しも)と為す。

 孔先生が言われた。「生まれながらにして知性豊かなる者は最上の人間である。学問をして知性を備える者はその次である。(生活に困難を感じて)学問をして知性を備える者は、それはその次である。生活に障害を感じながら学問をしない者、それは凡民であって、それこそ最下の人間である。

※浩→孔子は、天才の存在を認め、それを尊重する態度があったのでしょう。このあとの篇「陽貨篇」に「上知と下愚は移らず」とある「上知」がそれです。孔子自身は、「述而篇」で「我は生まれながらにして之を知る者にあらず」と謙遜しています。
 「学んで之を知る者」は、学問をすることに障害を感じない人間を言います。「困しみて之を学ぶ者」は、学問に対する興味を本来は持っていなくて、「困」つまり生活に困難を感じて、初めて学問におもむく者のことです。アドラー心理学を学び実践する人の多くは、子どもの不登校や問題行動がキッカケで、育児講座や野田先生の講演を聞いたりしたことからスタートしています。そういう人の中から、やがて、育児講座のリーダーやさらに学んでカウンセラーになられた人も多くいらっしゃいます。私の場合は、授業で心理学のパートをやっているとき、ある女子生徒が、「うちのお母さんがアドラー心理学というのをやっていて、本とか講演会の録音テープとかがあるので、貸してあげようか」と言ってくれたのに、即「お願い」と頼んだことがキッカケです。そのころ、岡山市内の蓮昌寺で毎月、野田先生のオープンカウンセリングが行われていて、毎回、かぶりつきで見学しました。それほど生活に困難を感じてはいませんでしたが、不思議な魅力に取り憑かれたようです。ところで、現在、毎月2回も開いているT工業高校の「研修会」にはかなり多くの先生方が参加されていますが、2018年の開講以来、一度も参加されない先生もたくさんいらっしゃいます。そういう方とはご縁がないのですね。
 古代中国の春秋時代は、封建主義的な身分制が絶対と考えられていた時代で、一般の人民が学問や書籍に接することのできる機会はほとんどありませんでした。そのため、孔子は一般庶民は志学の精神を持つことが不可能と考えていた節がありますが、これは春秋時代に生きた孔子の認識のある種の限界を示したものと言えます。儒学は学問によって人間性を陶冶し知性を高めることを重視していましたが、この条では大衆蔑視的なところが見られます。これは古代という時代の制約です。孔子は最も学問に適性のない人以外はやはり「教育の機会」によって変われると信じていた人でもありました。それでも地元・岡山には閑谷学校と言って、藩主が庶民のために創建した学校があります。これは誇らしいです。

引用して返信編集・削除(未編集)

このスレッドに返信

このスレッドへの返信は締め切られています。

ロケットBBS

Page Top