論語でジャーナル
10,孔子曰く、君子に九思あり。視ることは明を思い、聴くことは聡を思い、色は温を思い、貌(かたち)は恭を思い、言(ことば)は忠を思い、事は敬を思い、疑わしきは問いを思い、忿(いかり)には難を思い、得るを見ては義を思う。
孔子先生が言われた。「君子には九つ考え方がある。見るときははっきり見たいと考える。聞くときにははっきりと聞きたいと考える。顔つきは温和でありたいと考える。態度は恭しくありたいと考える。言葉は誠実でありたいと考える。仕事は慎重にやりたいと考える。疑わしいことには問い糾したいと考える。怒りにはのちのちのの困難を考える。利益を前にしては取るべき筋合いかどうかと考える」。
※浩→最も箇条書き的な条です。君子の徳目を「九思」という形でまとめたもので、君子たる者がどのようなふるまいや態度を取るべきなのかを直感的にイメージすることができます。
日本語の「思う」は漠然としていて、「思考」「意志・欲望」「感情」などをすべて「思う」で表現されます。そのためか、常々感情表現が適切でなく、思考を述べることが多いのは周知のことです。英語では「考える」はthinkで、「したい・欲する」はwantやwould like to~で、「感じる」はfeelとはっきり使い分けています。中国語も「思」は「考える」「反省する」「思索する」に限定して用いられる。ここでは、生活の習慣に則して考慮することで、行動の前に、行動しつつ、また行動のあとで「どうだかな?」と考えてみることを指しています。以上は貝塚先生の解説によります。
日本語で「思います」が乱発されているように“思い”ます。例えば、企業の代表者が会見で謝るような場合、「申し訳ございませんでした。心からお詫び申しあげます」と言えば、きちんと謝っています。こう言わないで、ほとんどの人が「心からお詫び申しあげたいと思います」と言っています。それを聞くたびに強い違和感を覚えます。記者が、「お詫び申しあげたいとお思い(お考え)なんですか。じゃあ、お詫びしてください」と詰めることもありません。「お詫び申しあげます」と「お詫び申しあげたいと思います」は、はっきり意味が違います。「申しあげたい」は「未来への意志」で、まだ未完ですし、「と思います」は精神内界の「思考」で、まだ実行されていないです。お料理番組でも、リポーターがおいしいものを口に近づけて、「では、いただいてみたいと思います」と、同じような言い方をしています。それを見ながら、「じゃあ、食えよ!」と叫んいます。これも、「では、いただきます」と言い切ればいいのに。小さいことが気になる僕の悪い癖です。あれ?(笑)。