催眠と受験 野田俊作
町内の風景
2001年09月27日(木)
涼しくなったので、数日前からパートナーさんと一緒にウォーキングをしている。夜の9時ごろ歩き始めて、今のところは町内を一周して、30分ほどで帰ってくる。私が住んでいるあたりは奈良時代(!)からの街道筋で、古い(おそらく江戸時代の)家並みが続く界隈がある。道はやわらかく湾曲を繰り返して続いていく。
なんでも、奈良時代の一級国道(?)は一直線だったそうだ。ここも奈良時代の一級国道なのだが、いまは一直線ではない。ある時代に、湾曲した経路に作り直されたのだろう。もし、一直線の道を、わざわざ湾曲した道に作り直したのだとしたら、あきらかに意図がある。
美学的な意図でないことは確かだな。そんなもので大工事をしたりしないもの。経済的な意図か軍事的な意図だ。おそらく、軍事的な意図ではないかな。ここらあたりでは、何度も戦争があった。有名なのは、南北朝の騒乱だ。楠木正成が、ここからもうすこし南へ行ったところに割拠していたしね。道を湾曲させておくと、見通しが悪くなって、きっと戦争のときに味方に有利になるのだろう。
なんとなくそんなことを考えながら歩いている。もともとがどういう意図であるにせよ、やわらかにくねって続く街道の風景は美しい。
催眠と受験
2001年09月28日(金)
ときどき頼まれて、催眠でもって受験の手伝いをすることがある。「普段はよく勉強しているのだが、試験当日になると緊張してしまって実力が出せない」というタイプの人にしか使えない治療法なのだが、効果は抜群にある。
まず、その人の中の「賢いペルソナ」を探し出す。これはちょっとコツがある。受験当日は、「緊張しやすい自我」ではなくて「賢いペルソナ」が出てくるように後催眠暗示をかける。その後、多くの場合は、「この催眠の中身は忘れてしまうでしょう」と言って催眠から出てもらう。その方が自我が混乱しないからだ。こうしておくと、受験当日は、なぜかとても落ちついていて、実力が十分に発揮できるのだ。
「催眠でもって試験に合格するなんて、インチキじゃないか」と思われるかもしれない。しかし、受験者の実力を百パーセント発揮できるようにしているだけで、その人がもともと覚えていないものは出てこない。普段サボっている人は、いくら催眠をかけても、なにも出てこない。だから、このやり方はフェアだと思う。
ちょっと別の話だが、むかし、ある大学の入学試験問題が漏洩したことがある。なんでも刑務所で印刷していたのが、囚人がうまく持ち出したのだったと思う。それを、受験する年齢の子どもがいる親の家を回って、何百万円かで売りつけたのだ。実際にそれを買った親が数人いて、その子どもたちは合格してしまった。
ここまではよくありそうな話だが、この話の面白さは、このことが発覚したのが、その子どもたちが4回生になってからだったという点にある。1回生の時に発覚したのであれば、教授会は迷わずこの子たちをクビにしたと思うのだが、4回生になってからなので、困ったことになった。結局、教授会は「おとがめなし」という決定をした。本当か嘘か知らないが、教授会が言うには、「入学後の成績を見ると、落ちこぼれずについてこれているので、入試が不正であったからといって、実力がなかったわけではない」ということだった。
教授会が言うのが本当だとすると、たとえば不正入試した子どもたちが、もし試験問題をあらかじめ見なかったら不合格になったかもしれないが、その不合格は、ある意味で不当だということになる。だって、その大学で学ぶだけの実力のある子どもを入学させなかったことになるのだから。まあ、これは屁理屈だけれどね。
不正入試の話をしたいわけではなくて、「自我」でなければ受験資格がないか、「ペルソナ」で受験してもいいか、という話をしたいのだ。子どもたちのペルソナを呼び出して受験させるのは、定員のある試験の場合は、ややフェアさを欠くかもしれないが、定員がない試験の場合は、その子どもが合格することで他の子どもが不合格になるわけではないから、公正だと言ってもいいのではないか。
不正入試が不正入試であるのは、一部の子どもにだけ問題をあらかじめ見せるからだ。すべての子どもに問題を見せれば不正ではない。同様に、すべての子どもに催眠をかけて受験させるなら、定員のある試験でも不正ではないな。ひょっとしたら、そういう時代が来るかもしれない。エリクソン催眠の教育への応用は、アメリカでは話題になりはじめているようだから。
アドラー心理学と催眠
2001年09月29日(土)
このところエリクソン催眠の話を書いているが、「催眠」という言葉は、きわめてうさん臭く響くようだ。ある人から、「野田さんは『臨床心理学は科学でないといけない』という持論を変えたのか?」と言われた。そんなことはないよ。エリクソン催眠に関する、私の「科学的」解釈を書いておく。
人間の心は、外から入る情報で、状態がコロコロ変わる。たとえば、いいことを言われると喜ぶし、いやなことを言われると落ち込む。このとき、入力によって別の人格が動きだすのか、人格は一つしかなくて、それでもってあらゆる入力を処理するのか、どちらなんだろう。状況によって人格が変わると考えるのが、ミルトン・エリクソンの考え方だと思う。つまり、入力の種類でもって、それに対応したサブルーチン(人格)を呼び出すのだ。
ふつう出会うようなありふれた入力に対しては、私が「自我」とよぶサブルーチンが呼び出されて使われる。ある種の入力に対しては、自我ではないサブルーチン(私は「ペルソナ」と呼んでいる)が呼び出されるのだが、そのサブルーチンもまた、自我と同じように、過去に学習されて形成されたものだ。だから、その人自身の一部なのであって、どんなに自我と似ていなくても、他から憑依したものではない。つまり、心霊現象やチャネリングじゃないんだ。ほら、ちょっと科学的になってきただろ。
たとえば、夫婦喧嘩を思い出してほしい。喧嘩になると、それまで忘れていた記憶がよみがえってきて、「あなたは、あのときはあんなひどいことを言った、あんなむごいことをした」と言いつのる。それを聞くと、相手にも、それまで忘れていた記憶がよみがえって反論する。そうしてエスカレートして、ひどいことを言いあう。頭は「こんなことは言ってはいけない」とわかっているのに、口が勝手にひどいことを言うような気がする。こんなとき、自我は眠ってしまって、喧嘩用のペルソナが出てきているのだ。つまり、ペルソナが交代するのは、催眠状態のときだけの話ではなく、ごく普通に見られる現象なのだ。
「記憶が変わる」というのは、アドラー心理学の考え方では、人格が変わったということだ。普通「性格(ライフスタイル)」と呼んでいるのは、自我の性格のことであるようで、ペルソナたちは、それとは違う性格をもっているようだ。もっとも、アドラー心理学者の間には、すべてを一貫するひとつの性格があるのだと考える古典学説墨守派もいると思うが、その考え方よりも、複数の性格をもっていると考える方が、より単純でより強力な理論を作れると思う。
もちろん、それらを使う無意識的自己はひとつしかなく、その方向性はたえず一貫している。ひとつの目的のためにさまざまの人格を使い分けるのだ。ときどき人格の選択を間違って、無意識的な目標と反対の方へつっぱしることがある。こういうとき、本来の目標は何だったのかを思い出してもらい、現在のペルソナがその目的に合致しているかどうかを検討してもらう。アドラー心理学だと、そこでペルソナの性格を変えようとするのだが、エリクソン催眠だと、別の、もっと目的に適合したペルソナがないかどうか探して、もしあればそれを使ってもらう。こう考えると、アドラー心理学もエリクソン催眠も、理論は同じで、技法が違うだけなのだ。まあ、私が辻褄あわせで、理論が同じになるようにエリクソン催眠を解釈したのだから、あたりまえだけれどね。