イスラム思想を学ぶ 野田俊作
柳蔭
2001年10月15日(月)
桂枝雀の落語『青菜』に、大家の旦那が植木屋に酒をふるまう場面がある。その中に「柳蔭」というものが出てくる。「やなぎかげ」と読むのだが、日本酒ではないようだ。
旦那 さあさあ、ひとつやってもらいたいが。……こら(これは)言うとかんならん。夏にお酒は体がほめいてどもならん(ほてってどうにもならない)でな、暑いうちはこの柳蔭、井戸で冷やしたやつをやってんのじゃが……どやな植木屋さん、あなた、柳蔭を飲んでかえ。
植木屋 旦さん、今なんとおっしゃった。柳蔭。柳蔭。しぇー、ぜいたくなもんあがってはりまんな。いいえ、旦さん、あの柳蔭なんてものはね、ええ塩梅(あんばい)にひーやりと冷えませんことにはどうもなりまへん。へえ、やっぱり大きな深い井戸がございませんことには、へえ。誰でもどこでもというわけにはまいりません。いえいえ、当今はともかくも、昔は大名酒てなことを申しましてね、大名よりあがらなんだもんでございます、へえ。それを当家で頂戴できるやなんて、こんな嬉しいことはござりませんので。
ううむ、これは飲みたい。しかし、どういうものかわからない。『広辞苑』をひいたが、載っていない。小学館の『日本国語大辞典』という、全十巻もある辞書をひいて、ようやく、味醂(みりん)と焼酎を一対一に混合して冷やしたものであることがわかった。さっそく作ってみたが、なかなか美味だ。しかし、悪酔いしそうな酒ではある。
このように、飲み物や食べ物の話を聞いて飲んだり食べたりしたくなることを、大阪弁で「話食い」という。私は幼いころから話食いで、おいしいものの話を聞くと、どうしようもなく食べたくなるのだ。
イスラム思想を学ぶ
2001年10月16日(火)
アリー・シャリーアティー(1933-1977)という現代イランの宗教学者が書いた『イスラーム再構築の思想』(大村書店,櫻井秀子訳)という本を読んだ。彼はフランスに留学したこともあり、ヨーロッパ・アメリカの現代思想にも詳しいのだが、ヨーロッパ的な方法論でイスラムを分析するのではなく、イスラム固有の方法でイスラムを考え、そこからひるがえって現代社会を考えようとしている。
大部の著作なので、簡単にまとめてしまうことはできないが、無理を承知で要約するとすれば、「タウヒード」というキーワードで歴史と社会のすべてを解読しようという試みだといってもいいのではないかと思う。タウヒードというのは、すべての二元対立を超えて、一元論的にものを考える立場である。これの対極は「シルク」とよばれて、いわゆる「多元論的」ないし「多神教的」ないし「偶像崇拝的」な立場だ。
もしもある者が真理のためにではなく何者かに服従するならば、それはシルク信仰である。なぜならばタウヒードは、アッラーにのみ服従すべきことを教えているからである。もしもわれわれが自分の運命を他人に託したり、他人の手中にあると想定するならば、それはシルクの信仰を行っているのである。もしも自らの自由を他人に売り渡したり、ある者をみずからの主人とみなし、あるいは主人として認められたいという他人の願望を受け入れたならば、われわれはシルクの信者となる。
快楽主義も一種の偶像崇拝である。もしも金銭に執着し、困難克服のための唯一の手段としてそれに依存するようになれば、それもシルク信仰である。ある者に対して特別に親愛、信頼、追従、称賛、希望をいだくことはすべて、シルク信仰である。「財貨に屈するものは、信仰の三分の一を失っている」。以上の諸例は、タウヒードとシルクの間の明確な境界を確定するものである。
(中略)権力、知識、財産、人種ゆえに高慢になり、自分を他人より偉大であると誇示する者、あるいは自分の意思を他人に強制し、自分の好みに従って統治する者はすべて、神懸った主張を行う。そしてそれを受け入れる者はすべて、シルクの信仰者である。なぜならば絶対的な統治、絶対意思、自己の顕示、権力、専制、君臨は、神のみに限定されているからである。タウヒードの信仰者は、神以外に服従しない。まさにこれがイスラームの意味である。(pp.196-197)
なんて過激なことを言うんだろう。シャリーアティーは、こういう言い方で、当時のイランの王室の批判をしていて、民衆の蜂起をあおる。実際、彼の影響下に、1979年にイラン革命がおこる。しかし彼は、同時に西洋近代文明をも批判している。「金銭に執着し、困難克服のための唯一の手段としてそれに依存する」だの、「権力、知識、財産、人種ゆえに高慢になり、自分を他人より偉大であると誇示する者、あるいは自分の意思を他人に強制し、自分の好みに従って統治する者はすべて、神懸った主張を行う」だのというのは、今のアメリカ人そのままではないか。彼は、西洋近代文明に対しては、それが無神論であると言う理由で、否定的だ。
〈個人主義〉と〈集団主義〉、ならびに〈有神論〉〈人間中心主義〉が、正反対の対極にあるものとして、宗教、哲学、政治の分野において引き続き論議された。ただしイスラームは、これらに対して第三の道を示している。もしわれわれが、相変わらず〈個人〉に本源性を付与するならば、社会と対立する個人崇拝や自己中心主義を、宗教、哲学、神秘学、倫理学の名において大いに論じたであろう。また社会に本源性を付与するならば、個々の人間としての権利は基盤と意義を失い、大量虐殺が哲学的、倫理的、政治的な正当性をもつに至るであろう。実際のところ個人は自己のために価値を見出すこともなく、社会が誰かのために価値を見出すこともない。いずれの場合においても具体的な人間は、現在目のあたりにされるように社会的環境や個人の存在から疎外されてしまうのである。(pp.305-306)
これは、神を見失った西洋近代社会が、自己中心的な個人主義か、ファシズム的な集団主義か、いずれかの極に陥らざるをえないこと、そのどちらに陥っても、人間は疎外されてしまうことを指摘している。それはまったくそのとおりだと、私も思う。もっとも、イスラム教に改宗する気はないがね。
実は、この論調は、われわれ心理学を学ぶものにとっては、そう目新しくない。エーリッヒ・フロムが、ユダヤ教の立場から、ほとんど同じようなことを書いているからだ。フロムは、仏教にもとづいても同じことが主張できると言うし、私もそう思う。つまり、イスラム教でなければならないことはないのだ。それにしても、「宗教的基盤なしに道徳観を確立する試みは、ソクラテスの時代から今日に至るまでことごとく失敗に帰している」(p.171)というのは、ほんとうだと思う。
イスラム風構成主義
2001年10月17日(水)
昨日触れた、アリー・シャリーアティー『イスラーム再構築の思想』の中に、次のような一節がある。
前回の講義で私は、学生の質問に次のように答えている。「例えばペン、自由、革命といった語は、フランス大革命以前には、それ自体の意味しかもたなかったが、革命以降ではその言葉の意味のレベルや質、それが内包する精神、感情に相違が見られる」。革命以前にペンは、釘や砂糖割りの金槌、鏝(こて)、やっとこ同様の道具にすぎなかった。自由とは、諸々の状況のうちの一つとして言及されるにすぎなかったのである。ただしその後にはしばしば他の暗喩的、潜在的意味が含まれていた。例えば自由という語から、混沌、無制約、無拘束、霧散霧消、無教養等の他の意味も感じとられていた。フランス語の自由という語からの派生語を一瞥すると、libertinage(放蕩)、libertin(無信仰の)などが見られる。革命という語は、原則的には非難され、拒絶されるものの一つであり、反乱、蜂起と同義であった。つまり革命は、あらゆる物事を破壊する罪深い出来事であり、生活、安全、聖域を打ち壊し社会を衰退、荒廃させる災禍であった。(中略)
ところでフランス大革命以降ペンが、精神性、思考、人間性の聖なる象徴となるかたわら、自由と革命は、すべての人がうわべですら自らを関連付けようと試みるほど偉大なものとなった。(pp.159-160)
彼がこういう指摘ができるのは、フランス留学経験があるからだろう。イスラム世界では、「ペン」や「自由」や「革命」という単語には、フランスないしヨーロッパ・アメリカの人々がその単語にこめているような美しいコノテーションがないのだ。フランスで、彼は、新鮮な体験をしたに違いない。ともあれこれは、きわめて構成主義的なアイデアだ。
今回、アメリカは「自由」と「正義」をキーワードにして、戦争を正当化している。「自由」は独立戦争のときに、「正義」は第二次世界大戦で、美しいコノテーション(connotation=ある言葉が持つ、辞書的な意味(デノテーション)以外の個人的、感情的、状況的な意味合いや含蓄を指す言語学用語。日本語では「共示」「含意」「含蓄」「内包」などと訳される。例えば「バラ」という言葉のデノテーションは「バラ科の植物」で、コノテーションでは「愛」や「情熱」といった象徴的な意味が付随して理解される)にくっついてしまった単語だから、アメリカの民衆は、「自由と正義を守るため」であれば、たいていのことには目をつぶるだろう。しかも、アメリカが言う「自由」というのは、ピストルをもって守るべきものだし、「正義」にいたっては、広島と長崎に原爆を落としても貫き通すべきものなのだ。アメリカだけでなく、いわゆる自由世界も、「自由と正義を守る」というスローガンにかなり説得されている。
しかるに、イスラム世界では、「自由」にはほとんどポジティブな価値がないだろうし、「正義」は、イスラム教にもとづいた意味で使われ、アメリカの言うのとはまったく違うニュアンスをもっているだろう。そうなると、アメリカが言う「自由と正義を守る」というのは、イスラム世界ではいっこうにピンとこないスローガンになるわけで、説得力がないだろう。原理主義者たちにたいしては何を言っても説得力がないだろうが、穏健なイスラム諸国に対して説得力のあるスローガンを考えないと、イスラム世界全体を敵にまわしてしまうおそれがある。