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スレッドNo.786

アドラー心理学会総会(1)     野田俊作

意見か事実か
2001年10月18日(木)

 Andre Kukla: "Social Constructivism and the Philosophy of Science," Routledgeという本を読んでいる。難解だがおもしろい本だ。

 その中に、こんな話がある。

 もしブルクハルトが1860年にルネサンスを構成したと言うとすると、1860年のできごとが16世紀のできごとを構成したと主張していることになる。(p.47)

 つまり、ルネサンスという概念は1860年まで存在しなかったので、ミケランジェロやパレストリーナは、自分がルネサンス人だとは思わなかったことになる。ところが、ブルクハルト以後の人にとっては、ルネサンスというのはきわめて明確に規定されたある時代区分であり、ミケランジェロやパレストリーナがルネサンス様式で作品を作るルネサンス人であることは疑いようがない。21世紀のわれわれにとって、16世紀がルネサンス時代であることは「事実」であるように思える。しかし、16世紀にはそれは「事実」ではなかった。ある概念が、そう簡単に「事実」であったりなかったりするのはおかしい。16世紀に「事実」でないなら21世紀にも「事実」ではないので、単なる「意見」であるかもしれない。
 オーケー、そうだとすると、いつか未来に、21世紀は「なんとか時代」だと名づけられるかもしれない。しかし、われわれはその名前を知らない。にもかかわらず、その時代の人から見れば、21世紀は、前後の時代とはっきり区別できる特質をもった時代に見えるかもしれない。さて、そのなんとかいう名前は「事実」か「意見」か。やっぱり「意見」かな。
 もうちょっと言うと、ガリレオは地動説を提唱して、われわれは地動説を確実な「事実」だと思っているが、中世の人は地動説を知らなかったし、言って聞かせても信じなかっただろう。じゃあ、中世の人が信じている天動説は「虚偽」で、われわれが信じている地動説は「事実」なのか。
 未来の誰かが来世の実在を証明するかもしれない。なにしろ、太陽の周りを地球がまわっていることと同じくらいはっきりと「実在を証明された」のだから、それは「事実」だということになる。しかし、21世紀のわれわれは来世の実在を信じない。われわれが信じていることは、だから「事実」ではない。われわれは虚偽を信じていることになる。しかし、われわれの実感としては、来世が存在するというのが虚偽で、存在しないというのが「事実」であるように思える。いや、両方とも「意見」にすぎないのかもしれない。そうだとすると、天動説や地動説も「意見」であって、一方が「事実」で一方が「虚偽」であるわけではない。
 要するに、「意見」と「事実」の間には、そんなに明快な区別はないわけで、すべてを意見だということもできるし、すべてを事実だということもできる。あるものを「事実」だといい、あるものを「意見」だというのは、しかし、かなり恣意的な気がする。それよりも、すべてを「事実」だと考えるか、すべてを「意見」だと考えるかのほうが、より理論的な整合性がありそうだ。しかし、どちらの極をとるかで、人生に対する態度がかなり変わってきそうな気がする。ゆっくり考えてみよう。



アドラー心理学会総会(1)
2001年10月19日(金)

 昨夜から徳島に来ている。日本アドラー心理学会の総会が開かれるのだ。今朝から理事評議員会があるので、前日泊する。私は、今は理事でも評議員でもないのだが、事務局長をしているので、出席しなければならない。今年はさいわい、そんなにやっかいな案件はないので、議事は淡々と進行した。それでも、朝10時から午後1時すぎまでかかった。1時ごろから一般会員が集まってきて、午後2時から総会があった。これも問題なく進行できた。
 3時から「21世紀のアドラー心理学会」というシンポジウムがあった。これにもシンポジストとして参加しなければならない。社団法人化だとか学術会議参加だとかについて、かなりやっかいな議論をした。さいわい、会員の関心が高く、フロアからも積極的な発言があった。どうなるのかわからないが、ともあれ民主的に討議し民主的に方針を決めていけるだろう。
 発表には、いつもはOHPを使うのだが、今回はパワーポイントを使った。ある人が、パソコンとプロジェクターをもっていくというので、それに便乗することにしたのだ。パワーポイントを使うのははじめてだが、なかなか便利だ。むかし、青焼きのスライドを作ったことを思い出して、隔世の感がある。てなことを言うと、おじいだなって言われそうだな。
 夕食の後、午後7時からは、全国の活動家の連絡会議があるが、私は地域活動家ではないと自分では思っているので、この会に出たことがない。かわりに、懇親会の余興でやるコーラスの練習に参加した。「アドラーコール」というのだが、1999年の沖縄での総会のときにはじまって、毎年歌っている。1月ほど前に希望者に楽譜を郵送して、総会で集まったときはじめて練習する。懇親会は2日目にあるので、総練習時間は1時間半か2時間ほどしかない。それでもなんとかなる。
 9時ごろから、ホテルの廊下の一角でおしゃべりをはじめた。ちなみに、アドラー心理学会の総会は、原則合宿制なので、会議が終わってもいっしょにいるのだ。町へ遊びに出る人は出るが、どこにも行かずにおしゃべりしている人もいる。夜中まで、あれこれ、あまり賢くない話をしてから寝る。いい時間だ。



アドラー心理学会総会(2)
2001年10月20日(土)

 午前中は分科会で、医療福祉・理論・家庭・企業・教育などのグループに分かれてディスカッションする。私は、例年、これはパスして、町に遊びに出たり朝寝したりしているのだが、今年は理論分科会から講師によばれて、エリクソン催眠について1時間ほど話した。3時間あるのだが、私が1時間プレゼンテーションして、あと2時間は参加者が討論する。話題提供というわけだ。
 午後は、徳島県木頭村の前村長、藤田恵氏の特別講演『ダムと自然』と、それにひき続いて、藤田氏を囲んで会員2人が鼎談をした。藤田氏は、ダム計画に反対し、とうとう国に計画を白紙撤回させたという人だ。アドラーは環境問題についてなにも言っていないが、もし今生きていたら、きっと活発に発言するだろう。藤田氏の素朴な話しぶりが、とても好感が持てた。小さな村だって、工夫すれば、国全体を動かせるんだ。
 夕方は懇親会で、昨日触れたコーラスもしたが、今年の目玉は阿波踊りだ。徳島のグループが企画して、アドラー心理学の「あ」を染め抜いた特注ゆかたを作り、さらに「あどらー」と書いた高張提灯まで作り、「吉野川連」という阿波踊りグループの囃し方に来てもらってお囃子をして、しばらくの間、踊り狂った。



アドラー心理学会総会(3)
2001年10月21日(日)

 最終日は午前中だけで、「男女共同参画」についてのシンポジウムがあった。かなりエキサイトして意見を述べてしまった。

 男女が家庭内で役割分担をすることや、あるいは男女間に社会制度的な平等性が確保されなければならないことは、アドラー心理学を学ぶ者の間では百年近く前から常識なのだが、フェミニズム運動をしている人たちが、「ジェンダー・フリーになれば、平等が実現できる」と言ったので、かちんと来てしまったのだ。
 私は、「男らしい」「いい男」でありたいと思っている。けれども、男性であることで自動的にある社会的ないし家庭的役割が決まるとも思っていないし、男性であることが優れたこと、あるいは劣ったこと、であるとも思っていない。いま現在、男らしいいい男であるかどうかはわからないが、それに向かっていつも努力している。「理想の男性像」というのがあって、そこにむかって生きている。
 ある女性が、「『男らしい』というんじゃなくて、『私らしい』ではいけないの?」と尋ねた。「いい私」というのは、イメージできない。「いい男」で「いい社会人」で「いい治療者」で「いい親」で「いい息子」で「いいパートナー」で「いい友人」で、そういうものの総体として、最後に「いい私」がイメージできるのであって、先に「いい私」があるわけではない。
 それに、「私らしい」というのは、端的なエゴイズムでありうる。「男らしい」という姿は、他の男性や他の女性との関係の中での自分の生き方だ。他者なしで自分を定義できないのだ。「いい社会人」や「いい治療者」なども、すべて他者との関係の中での自分のあり方だ。しかるに「私」は、かならずしも他者の存在を前提にしないで定義できる。「私らしい」生き方というのは、ヨーロッパ・アメリカ風個人主義の、もっとも悪い面につながる恐れがある。
 何人かの女性が、「『女らしい』女ってどういうものかイメージできない」と言っていた。理想像がイメージできないとすれば、現実に女性であることをアクセプトできていないことになるのではあるまいか。「いい女」であろうとするから、自分が女であることにオーケーを出せるのだと思う。「男らしい」「女らしい」という用語が、伝統的にある使い方をされて、その結果、一種の差別用語に落ちぶれてしまったため、自分のことを「女らしい」女であろうと考えることが、なんだか「遅れた」こと、さらには「間違った」こと、であるかのように、女性は思ってしまうのかもしれない。じゃあ「いい女」っていうのはどうだ?
 私がイメージしている「いい男」というのは、むかしのイギリスのジェントルマンかなあ。『八十日間世界一周』の主人公のフォグ氏なんか、いい男だと思うなあ。召使のパスパルトーも、別の種類のいい男だ。『クオ・ヴァディス』に出てくるペトロニウスというローマ貴族もいい男だ。実在の人物だと、山本五十六なんかいい男だと思うなあ。会ったことがある人にも、ほれぼれするほどいい男が何人かいる。名前は、さしさわりがあるかもしれないので、言えないが。
 要するに、ジェンダーは、伝統的な定義を撤廃した後で再定義しないといけないのであって、なくしてしまってはいけないのだ。子どもたちに「いい男でありなさい」「いい女でありなさい」と言って育てるほうがいいと思う。そうしないと、子どもたちが自分の性を受け入れることが難しくなるのではないか。「いい男」や「いい女」を通してしか、「いい私」にはなれないと思うのだ。

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