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スレッドNo.788

私の正体    野田俊作

私の正体
2001年10月22日(月)

 昨日、「『いい男』で『いい社会人』で『いい治療者』で『いい親』で『いい息子』で『いいパートナー』で『いい友人』で、そういうものの総体として、最後に『いい私』がイメージできるのであって、先に『いい私』があるわけではない」と書いた。むかしはそう考えていなかったことに気がついた。姓名とか、性別とか、職業とか、国籍とかは「私」の属性であるにすぎず、それらを担うものとしての「私そのもの」があると、どこかに書いた気がする。「『私は野田俊作だ』とか『私は男性だ』とか『私は医者だ』とか『私は日本人だ』とかいうのは、『ほんとうの私』については何も言っていない。『ほんとうの私』は、属性ではない」と、そんなことを書いたように思う。
 しかし、この考え方は間違っていると、今は思う。「私は野田俊作だ」とか「私は男性だ」とか「私は医者だ」とか「私は日本人だ」とかいうことがあって、それらが「同じ人物」について言われていると私は思っていて、「私」というものをアイデンティファイするが、「私」というものは、ほんとうは存在しない。「ほんとうの自分」とか「真の自己」とかはなくて、「偽の自己」の集積しかないんだ。「偽の自己」というのは、要するに縁起によって生じたもので、空(くう)であり仮であって、実在するものではない。もちろん、それを超えた「真の自己」が存在するわけはない。

 諸君は、言語にとらわれて、迷いとか悟りとかいう名前にこだわっているために、道を見る眼を遮られて、はっきりと見ることができないのだ。経典といえども、書いてあることはすべて表面的な言説にすぎない。諸君はそのことがわかっていないので、表面的な言語の詮索をしてわかったと思い込んでいる。しかし、それは言語によりかかっているだけで、なんのことはない迷いの真っ只中なのだ。君たちがもし生死を離れて自由になりたいなら、この話を聞いているその君が、形相もなく、それ以上遡るべき根本もなく、それ自体以外によるべき場所もなく、しかもピチピチと躍動している真の自己なのだという、そのことをたったいま知ることだ。

 学人不了、為執名句、被他凡聖名礙、所以障其道眼、不得分明。祗如十二分教、皆是表顕之説。学者不会、便向表顕名句上生解。皆是依倚、落在因果、未免三界生死、汝若欲得生死去住、脱著自由、即今識取聴法底人、無形無相、無根無本、無住処、活撥撥地。

 これは臨在義玄(りんざい ぎげん=中国の唐代の禅僧。諡は慧照禅師。俗姓は邢。曹州南華県=山東省菏沢市東明県の出身。臨済宗の開祖)の言葉だが、これって仏教じゃない。日本人は、こういう思想に千年以上もだまされていたんだね。たしかに、俗耳に入りやすい思想ではある。



私の正体(2)
2001年10月26日(金)

 21日に、以下のように書いた。
 それに、「私らしい」というのは、端的なエゴイズムでありうる。「男らしい」という姿は、他の男性や他の女性との関係の中での自分の生き方だ。他者なしで自分を定義できないのだ。「いい社会人」や「いい治療者」なども、すべて他者との関係の中での自分のあり方だ。しかるに「私」は、かならずしも他者の存在を前提にしないで定義できる。「私らしい」生き方というのは、ヨーロッパ・アメリカ風個人主義の、もっとも悪い面につながる恐れがある。

 今日、このことについて仲間と話をしていたが、あまりちゃんと理解されていなかったようだ。もうすこし補足する。
 どういう行動が「男らしい」かは、私一人ではきめられない。世間一般に「男らしい」と認められている型があって、それに適合していない行動を、私が勝手に「男らしい」と主張しても、認めてもらえない。つまり、「男らしい」という名前(シニフィアン)に対応する概念(シニフィエ)を、私ひとりで完全に恣意的に決めてしまったのでは、言葉が通じなくなって、世間様が許してくれない。
 むかしはただひとつの世間しかなかったので、「男らしさ」の意味は一義だったが、最近はたくさんの世間があるので、さまざまの「男らしさ」がありうる。逆にいうと、すべての人々から「男らしい」と認められる行動というのは、もはや存在しないので、ある特定のグループの中でだけ通用する概念でしかない。それにしても、今なお、ただひとりで「この行動は男らしいんだ」と言い募っていても、誰も認めてくれなければ、言葉が意味をなさない。
 これに対して、「私らしい」については、「この行動が私らしいんだ」と言えば、他者はそれを否定できない。「あなたらしくないわね」と言われるかもしれないけれど、さらに重ねて、「いや、これこそが私らしいんだ」と言えば、もうそれ以上反論のしようがない。つまり、「男らしさ」という言葉の意味は私と他者の間で共有されているが、「私らしさ」という言葉の意味は、ひょっとすると私にだけ特有のもので、人々と共有されていないおそれがある。
 「私らしい」の他に、「人間らしい」もそうかな。勝手に解釈できるんだ。だから、いつでも必要があれば、自己正当化の口実に使える。西洋個人主義というのは、とてもよい面もあるが、とても困った面もある。困った面というのは、他者のことを忘れて、自分の利益を最優先する思想に落ちぶれてしまうことだ。むかし、ハイジャック事件のとき、「人の命は地球よりも重い」と言った総理大臣がいて、「バカか!」と思ったことがある。たとえレトリックでも、そういう自己中心的なことを言ってはいけない。そういう発想は、「私らしさ」や「人間らしさ」という発想と、論理的な連関がある。
 一方、「男らしい」や「女らしい」や「大阪人らしい」や「日本人らしい」や「医者らしい」や「教師らしい」や「若者らしい」や「七十年安保世代らしい」などなどは、意味の共有があって、あまり勝手に使えない。そういう勝手に使えない「らしさ」でもって自分を決めていくと、共同体との関係の中で自分が定義される。仏教語でいうと、縁起の中で自分が決まる。それを離れて、他者とは無縁に定義される自分がない。これは健全な考え方だと思っている。



なぜ私は新聞に投書しないか
2001年10月27日(土)

 アドラー心理学の講義をしていたら、「私はアドラー心理学に全面的に賛成だ。世間で言われている『心の傷』の対策などは間違っていると思う。アドラー心理学の考え方のほうが正しいと思う。野田さんは、どうして、『世間のやり方は間違っている』と新聞に投書したりしないのか?」という質問があった(06/22に関連記事あり)。なるほどね、そういう風に考えるんだ。こういう質問をする人って、好きだな。
 「私は、新聞に投書する気はありません。学者は、そういう方法で戦うべきではないと思うのです。新聞への投書どころか、他の心理学の学説にもとづく『心の傷』の予防法や治療法を批判する気もありません。そうではなくて、われわれのやり方で『心の傷』を予防したり治療したりした実績を積み重ねて、それを専門誌に発表しようと思います。思弁的な空論ではなくて、実証的な科学的な議論をしたいんです」と答えた。
 しかし、新聞に投書するっていうのは、考えたことがなかったなあ。ふうん、そういう方法もあるんだね。使う気はまったくないが。

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