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スレッドNo.790

魔法使いの弟子    野田俊作

魔法使いの弟子
2001年10月28日(日)

 今日は、別の場所でアドラー心理学の講義をした。昼休みの雑談で、ある人が、次のようなことを言っていた。

 友人が催眠療法を習っているのだが、あるとき、治療を見せてくれた。ある女性に催眠をかけると、突然、男性の声になって、「自分の頭部の手術を受けた」と言い、あれやこれや口汚いことを言う。術者は、「長い間、こういう人を呼び出していると、悪い影響があるから」と、そのペルソナ(?)を消して、次のものを呼んだ。すると、被術者の死んだ祖母が出てきて、あれこれ言う。その言う内容が、現実に符合していたのだそうだ。

 こういう話をした上で、「野田さんがしているエリクソン催眠も、こんなのですか?」と言う。うへえ、催眠って、そんなのだと思われているんだ。これって、降霊術じゃないか。怪しすぎるよ。しかし、まあ、そう思われているかもしれないな。「催眠術」って、怪しい響きだものね。
 家族療法家や短期療法家で、催眠家ミルトン・エリクソンの影響を受けた人がたくさんいるのだが、催眠を使おうとしない。それどころか、なんとかエリクソンの心理療法技法から催眠を抜き去ろうと努力している。それは、結局は、世間が催眠を見る眼が冷たいからだと思う。「催眠が専門です」と言うと、心理療法家の間でも、一歩引かれてしまうもの。
 そう考えると、私の師匠の高石昇先生は偉いな。大学人でありながら、堂々と催眠家って名乗っているもの。私も、長い間、催眠を使うことに抵抗があったのだけれど、魔法使いの弟子は魔法使いになるしかないかなと、このごろ割り切った。



陰陽師
2001年10月29日(月)

 パートナーさんと彼女の娘と、三人で映画『陰陽師』を見にいった。安倍晴明役の野村萬斎も源博雅役の伊藤英明も、明るくていい。漫才のボケとツッコミをすこし上品にしたようで、どこかトボけている。夢枕獏の小説の中の二人の感じは、こういう風だ。平安時代が舞台なのに、とても現代的な青年なのだ。テレビで稲垣吾郎が安倍晴明で杉本哲太が源博雅を演じたテレビドラマは、二人とも暗くて、原作とはずいぶん感じが違った。監督の滝田洋二郎は、テレビのものをまったく見なかったのだそうで、正解だったと思う。
 まあ、なんということはない娯楽映画なのだが、主役の野村萬斎はさすが狂言師で、所作がきわめて美しい。途中と最後に挿入される舞ももちろん美しいが、立居振舞がいかにもメリハリが効いていて、さわやかだ。「順体」というのだったと思うが、右手と右足が同時に前に出る。日本の踊りや武道はすべてそのように動く。それが完全に身についているので、とても自然で美しい。
 以前に(05/30)、テレビドラマになった陰陽師を批判したときに、「呪」についての晴明と博雅の議論がどうもうまく描けていないと書いたが、映画では、けっこううまく描けている。議論の場面はほんの少ししか出てこないのだが、大学生くらいの年齢の青年の青臭い議論という感じが、上手に演出されている。
 こういう話がうけるところが、21世紀なんだな。陰陽道とか密教とか魔法とか、そういうものが、いくらかまじめな話題になるんだ。1970年代のいわゆるニュー・エイジでは、禅とか瞑想とか悟りとかが話題になったけれど、それとはちょっと違っている。もっと非論理的な不合理なものがとりあげられている。科学に対する信仰が薄れたんだな。この流行は、深いところでポスト・モダンの思想と関係があると思う。



イスラムの正義
2001年10月30日(火)

 宮田律『イスラムでニュースを読む』(自由国民社)という本を読んでいる。9月11日のテロ事件以前(2000年4月)に出版された本だが、事件の背景が実によく書けている。目次は次のようだ。

【第1章】イスラム政治運動の成長
なぜいまイスラムなのか
オサマ・ビン・ラディンによるアフガン・コネクションの構築
イスラム集団とキーパーソン
国際安全保障の核としての南西アジア

【第2章】イスラム紛争を読む
キルギス日本人誘拐事件
チェチェン紛争
インド・パキスタン核問題
コソボ紛争
ケニア・タンザニア、アメリカ大使館テロ事件
サウジアラビアのイスラム主義勢力
湾岸戦争
アフガニスタン内戦
インドネシア・ワヒド政権

【第3章】イスラムの基礎知識
イスラムの宗教
イスラムの生活
イスラムの経済

【第4章】イスラム経済と世界
イスラム世界の石油資源
イスラム諸国の経済外交

 この本のおかげで、現代イスラム世界についての基礎知識はいちおう身について、それなりにわけ知り顔ができそうだ。逆に、これを読むまでは、イスラム世界について何も知らなかったなと思う。
 先日(10/17)、「イスラム世界では、『自由』にはほとんどポジティブな価値がないだろうし、『正義』は、イスラム教にもとづいた意味で使われ、アメリカの言うのとはまったく違うニュアンスをもっているだろう」と書いたが、この本には、「正義」について、次のように書かれている。

 イスラム世界の「正義」の概念は、基本的には、イスラム共同体内部のムスリム相互の富の公平、共同体全体の利益を考える政治、ムスリムの意思が政治に反映されること、またイスラム法が無視されていないこと、さらに対外的にはイスラム世界の運命が外部勢力によって決することがないことといえよう。(p.134)
 しかるに、西欧化によって、貧富の差は広がり、一部特権階級が自分たちの利益のために政治をするようになり、イスラム法に代わって西洋的な法体系が採用され、アメリカがイスラム世界固有の問題に口出しする、というように、アメリカや西ヨーロッパ諸国のおかげで「正義」が犯されていると、ムスリムは感じているようだ。それは単に原理主義的な過激派だけではなく、イスラム世界全般が抱いている感じであるようだ。だから、アメリカがいくら「正義」と言っても、言葉が通じていない。イスラム世界は、アメリカが言う「不朽の自由」だの「永遠の正義」だのといったキャンペーンに、アメリカ人が計算したようには反応してくれないのだ。
 テロ対策について、イスラム世界の穏健な人々が納得するような言葉の使い方を探さなければならない。そのためには、イスラムについて本気で勉強しなければならない。日本政府には、イスラムの言語や宗教や社会や歴史や風習についてよく知っている人がいるのだろうか。ちょっと不安だ。

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