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スレッドNo.792

科学と宗教の未来    野田俊作

科学と宗教の未来
2001年10月31日(水)

 ある友人が、「21世紀の終わりには、宗教はなくなるんじゃないか」と言った。私は、むしろ、宗教は盛んになると思う。ただ、今までのようなあり方ではいられなくなるだろうとは思うが。つまり、新しい形で復活すると思うのだ。
 かつて科学は「宇宙の真理を発見する方法」だと思われていた。しかし、今では、「予測と制御のための言語システム」程度にしか思われていない。「客観的」とか「実証的」とかいうことさえ、構造主義者や構成主義者からは疑われている。要するに、「ひとつのものの見方」でしかないのだ。たしかに、科学というものの見方は、ある場面ではきわめて便利であり強力である。つまり、観察可能な事象をもとに未来の事象を予測すること、未来を変えるために現在の事象に操作を加えること、この2つについては、科学以上に有効な方法を人類は知らない。天気予報は占いよりも当たるし、現代医学は祈祷よりも効くのだ。
 20世紀は、科学に立脚する技術で、「自然を征服」しようと試みた。ある程度、それは成功したけれど、なにしろ自然は非線形なものだから、予想外の副作用がたくさんあって、最近は反省期に入っている。反省期に入ってはいるけれど、まだ人々は科学信仰を捨てない。環境問題のように、科学の副作用として生じた諸問題も、科学がもっと進歩すれば克服できると信じている人が多いし、あるいは実際にそうであるかもしれない。
 しかし、科学だけでは、けっして問題は最終的には解決しないのだと、私は思う。ここでもしばしば書くけれど、たとえば倫理の根底は超越的なものでなければならないと思うのだ。科学は、人間の倫理の起源にはできない。そういうことが、やがて一般常識になっていくだろう。「科学の効用と限界」ということについて、人々が理解するようになるだろうということだ。
 そうなると、科学で説明できない領域を説明するために、宗教が必要になる。ここで宗教というのは、超越的な根拠を元に、ある領域の現象を説明しようとする方法のことだ。超越的な根拠というのは、神仏でもいいけれど、縁起でもいいし般若波羅蜜でもいい。そういうものを前提にしないと展開できない論理というものがあるのだ。
 先日(10/26)、「男らしさ」はいいが「私らしさ」はよくないということを、縁起と関連づけて書いた。それを読んだ、チベット仏教に関心のある友人が、「こんなことまで縁起と関係づけるのね」と言った。縁起と関係づけなくてどうするんだね。私が理解する仏教とは、「一切の法は縁起によって生じる」ということで、私が男であること、医者であること、日本人であることなどは、すべて縁起によって決まったことだ。そういうさまざまの「法」が集合したものとして「私」があり、それらを離れて私というものが実在するわけではない。それはちょうど、エンジンや車輪や車体や窓ガラスから自動車ができているようなものであり、それらを離れて自動車があるわけではないのと同じだ。
 「そう説明されてはじめて、野田さんがなにを問題にしているのかわかったけれど、仏教を知らない人にはわからないんじゃない?」とその友人は言った。そうかもしれない。しかし、「男として(あるいは女として)どう生きるか」が科学で説明できる事柄であるとは、私は思わない。それは宗教的な事柄なのだ。仏教でなくてもいい、キリスト教でもイスラム教でもいいのだ。「私は男である(女である)」ということについてどう態度決定をすればいいのかは、科学の話題じゃなくて、ある超越的な根源と関係しながら考えるべき事柄なのだ。これが宗教的な事柄なのだとわかるようになるのが、21世紀ということじゃないか?



ポストモダン心理学と仏教
2001年11月01日(木)

 「ポストモダン心理学では、複数のパーソナリティを認める。無意識は一つだと思う。そのうえに、複数のパーソナリティがあって、文脈に応じてそのうちのひとつが意識され行動されている」という話をしたら、「無意識も縁起によって生じるのか」と、ある仏教フリークの友人に尋ねられた。私はアドラー心理学と仏教の比較論文をいくつか書いているので、アドラー心理学をポストモダン風に拡張して説明すると、さっそく、仏教との関係を気にする人がいるのだ。これはいいことだと思う。
 当然、無意識もまた縁起によって生じる。なぜなら、「私の無意識」だから。証明終わり。
 しかし、これでは、なんのことか、普通の人にはわからないね。インドの論理学では、「私は男性だ」というのを「私に男性性がある」という風に考える。「私」という「有法(ダルミン・基体)」の上に「男性性」という「法(ダルマ・属性)」が乗っていると考えるのだ。ちょうど、机の上に品物が乗っているようなものだ。机が有法で、品物が法だ。机は一つしかなくて、品物は複数ある。机は動かなくて、品物は次々と入れ替わるかもしれない。「私は医者だ」は「私に医者性がある」ということだし、「私は日本人だ」は「私に日本人性がある」ということだ。「男性性」や「医者性」や「日本人性」は法だ。だとすると、「私に無意識性がある」と言っていいことになり、無意識も法であることがわかる。
 仏教の教えによれば、一切の法は縁起によって生じる。私が男性なのも縁起によって男性なのだし、私が日本人なのも縁起によって日本人なのだ。だとすると、無意識が法であるならば、縁起によって無意識があるのだ。これで、証明は終わり。
 その人が、「無意識も縁起によって生じるのか」と尋ねたのは、無意識が「有法」で、その上にさまざまのパーソナリティが乗っかって、法として縁起しているように聞こえたからだと思う。その考え方は仏教的ではない。有法(あるいは界とも境とも我とも自性ともいう)は存在しない。私というのは、身体や意識や無意識や理性や感情や男性性や日本人性などの「諸法が集合」したものであって、それを担っている基体としての「我」(=有法)は存在しない。もし存在すると、それは縁起によって変化しない実体であることになり、そんなものがあったのでは、私は変化できなくなる。つまり、迷いから悟りに向かって変容できなくなる。
 私が法の集合体であって、それらを担う基体としての自性(あるいは我・界・境・有法)が存在しないということを、「無我」といい、あるいは「空(くう)」という。空だから縁起が可能なのだし、一切法が縁起によって生じるので、変容が可能なのだ。ともあれ、無意識は有法(=我)ではないし、無意識が原因で意識が結果なのではない。無意識も意識も、過去の業(ごう)の結果であって、その点ではどちらが上でどちらが下でもない。

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