ポストモダン心理学と仏教(2) 野田俊作
ポストモダン心理学と仏教(2)
2001年11月02日(金)
アドラー心理学と仏教は似ているという論文をいくつか書いたことがあるし、ポストモダン心理学も仏教に似ていると昨日書いた。「似ている」というが、実は、心理学を、私が仏教の理論から解釈しているのであって、ほんらい似ているわけではない。
仏教に出会ったのは高校生のころだが、ずっと「私は野田俊作だ」とか「私は男だ」とか「私は医者だ」とかを剥ぎ取っていくと、最後に「真の自己」があると思っていた。だって、日本の仏教はそう教えるのだから。
心真如(心の真実のあり方)とは、とりもなおさず、一法界(すべてのものの共通の基体)であり、大総相(その全体に通じるすがた)であり、法門体(種々の教えの本体)である。それはすなわち、心性(心の本性)が不生不滅であるということである。一切の諸法(意識の対象としてあらわれる現象)は、ただ妄念(誤った心の動き)によってさまざまに差別される。もし人が心念から離れれば、あらゆる境界(対象)の相(すがた)は無くなるであろう。それ故、一切の法は本来、言説の相を離れ、名称・文字の相を離れ、心縁(認識をおこす拠りどころ)としての相を離れており、畢竟して(ひっきょう=詰まるところ、結局)平等であり、変化することもなく、破壊することもない。ただ、これすべて一心(心そのもの)であるから、これを真如(しんにょ)と名づけるのである。
心真如者即是一法界、大総相、法門体。所謂心性不生不滅。一切諸法唯依妄念而有差別。若離心念則無一切境界之相。是故一切法、従本已来、離言説相、離名字相、離心縁相、畢竟平等、無有変異、不可破壊、是唯一心、故名真如。
これは『大乗起信論』の一節だが、もろもろの法の奥に「名づけられないそれ」としての心真如という基体(有法)があるという説だ。伝統的に、こういう考え方が仏教だと思われてきたのだが、松本史朗先生が『縁起と空』(大蔵出版)という本でこの考え方を批判された。それを読んでショックを受けた私は、昨日書いたように、法を支える基体は無いと考えるようになったのだ。
この考え方を学んだおかげで、仏教と心理学の間に乖離がなくなって、ひとつの理論で両方が理解できるようになった。それまでは、仏教は神秘思想で心理学は科学で、つながりが悪かったのだ。基体はないということがわかってから、仏教は神秘思想ではなくなって、科学的心理学と同じフレームワークで説明できるようになった。逆にいうと、基体の存在を前提にしている神秘主義的な心理学、たとえばユング心理学やトランスパーソナル心理学、への一切の劣等感がなくなって、この世もあの世も、ひたすらアドラー心理学とその拡張系だけでやってゆけるようになった。
自己は発見されない
2001年11月03日(土)
私の子ども時代の思い出に、次のようなものがある。
5歳のころ、家の前に庭があって、そこに大きな石があった。いつもその上に乗って遊んでいた。ある朝、おじさんたちがやってきて、大きな櫓を組んで、その石を滑車で持ち上げていた。どこへもっていくんだろうと思っていたら、すこし離れた場所に下ろした。父が車を買って、ガレージを作るために石の場所を動かしたのだ。
アドラー心理学では、このような子ども時代の思い出を使って性格分析をする。この思い出は、どのように解釈できるだろうか。
大人たちは私の意向を無視して、勝手に世界を作り変える。
技術さえあれば、困難に見える仕事でもなしとげることができる。
新しい楽しみ(車)を得るためには、古い楽しみ(石)を取り除かなければならない。
さて、このうちのどれが正しいだろうか。
古典的なアドラー心理学では、どれかひとつが正解だった。というのは、単一のパーソナリティが存在していて、それを「発見」すればよかったのだから。しかし、私なりに理解したポストモダン心理学では、複数のペルソナがあって、その核になる唯一のパーソナリティはない。だから、唯一の正解はない。上の3つのうち、どれも当たっていそうに思う。「そう言われればそう思われる」のだ。つまり、思い出の「意味」は、それを分析している対話の中で「構成」されるのであって、それ以前にはなかったかもしれないのだ。
性格分析は、だから、「自己発見」ではない。発見されるべき自己があらかじめ作り付けであるわけではなくて、対話の中で新しく作り出されるだけなのかもしれない。だから、「自己発明」だ。ということは、子ども時代の思い出であれ、その他のエピソードであれ、その人が一番建設的に利用できそうな方向に解釈すればいいわけだ。ただし、これは私の発見ではなく、ナラティブ・セラピストもそんなことを言っている。いや、もっと前から「リフレーミング」という名前で技法として使われている。
私がここで言いたいのは、「『無我』であるから変容が可能だ」ということだ。もし私の中に唯一のパーソナリティがあらかじめ存在するのであれば、私には変容の可能性がなくなる。私が、文脈依存なさまざまのペルソナの集合にすぎないから、適切な文脈さえ与えられれば、簡単に変容できるのだ。そういう意味で、思い出というのは、古典の一節のようなもので、状況に触れて、さまざまの違った教訓をわれわれに与えてくれるのだ。それに触れることで、われわれは柔軟に自分を変える。