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スレッドNo.796

頑迷固陋(がんめいころう)    野田俊作

頑迷固陋(がんめいころう)
2001年11月04日(日)

 あるところで公開カウンセリングをしていたら、フロイト派のスーパーヴァイザーのもとでカウンセリングを学んでいるという人がやってきて、「1回のカウンセリングで、あんなに進んでしまっていいんですか?」と尋ねる。「1回で進まなければ、何回で進めばいいんですか?すこしでも早く問題を解決してあげるのが、治療者の責任だと思うんですが」と私は答えた。「でも、過去のことをいっさい聴かないで、未来のことだけをおっしゃっていていいんでしょうか?」と言う。「過去は終わってしまったから変えられませんが、未来はまだ来ていませんから、どんな風にでも変えられます」と私。「あれではほんとうのところは治らないのでは」とその人。「『ほんとうのところ』は私にもクライエントさんにも見えません。見えているのは、クライエントさんが困られている問題だけで、その問題が解決したんだからいいんじゃないですか」と私。
 ああ、どうせこの話は噛み合わないんだ。ここ50年も、われわれアクティヴ・セラピストはフロイト派の人たちと同じ議論をしてきた。ミルトン・エリクソンに誰かが、「過去のことを尋ねなくていいんですか?」と聞いたら、エリクソンが、「忘れていたよ」と答えたのは、もう50年近くも前の話だ。目の前でクライエントさんが回復していっているのに、原因論者たちは信じることができない。きっと再発するだろうとか症状移動するだろうとか主張する。しかし、実際には再発も症状移動もほとんどおこらないし、おこったらまたそのとき1回か2回会えばいいだけのことだ。
 人間は、ある理論を信じてしまうと、その理論と認知的不協和をおこすデータの存在を否定する。理論は地図でデータは現場なんだよ。地図と現場が違ったら、間違っているのは地図のほうなのにね。



卒業論文
2001年11月05日(月)

 このごろ、「アドラー心理学でもって卒論(修論)を書きたい」という人が多いので困る。「指導教官の専門は何?」と聞くと、行動主義者だったり、分析派だったり、短期療法家だったりする。「それだったら、先生の専門領域で書きなよ。アドラー心理学なんて、学生さんのレベルで論文になることなんてないよ。百年近くもみんなで啄ばみつくして、今じゃ、ほんとうのプロにしか論文は書けないぜ」。そんなことを言うのだが、あきらめる人はめったにいない。
 指導教官のほうがまた無責任に、「アドラー心理学?いいんじゃない、それで書けば」なんて言うものだから、余計に困ってしまう。それで、実際に書いたら、きっと気に入らないんだ。いくつか原因がある。
 ひとつは、教官が思い浮かべているアドラー心理学と、実際のアドラー心理学がまるで違っていることだ。教官がイメージしているのは、フロイトの亜流で、劣等感だの力への意志だのをキーワードにした古いタイプの心理学だ。しかるに、実際のアドラー心理学は、この間までは「アドラー心理学は紛れもない認知理論だ」と言っていたし、もうちょっと前は「アドラー心理学は現象学的心理学の先駆だ」と言っていた。今じゃ「ポストモダンだぜ、アドラー心理学は、いえぃ!」なんて言っている。まったく節操がないんだ。
 ふたつ目の原因は、日本語の文献がないので、英語かドイツ語を読まないと話にならないのだが、このごろの学生さんは語学力がなくて、そういうものを読む気がないことだ。大学の先生も大変だね。外国語の論文を読む気のない学生さんに論文指導をするなんて。他の流派だと邦訳された文献がけっこうあるが、アドラー心理学はアドラー自身のとドライカースのとを除いてはあまり翻訳がなく、新しいものはほとんどないし、あっても、訳者が、アドラー心理学がわかっていないか外国語がわかっていないか、あるいは両方がわかっていないかで、使いものにならないものが多い。
 みっつ目の理由は、アドラー心理学の側のサポート体制が悪いことだ。指導できる力のあるアドレリアンは、みんな信じられないくらい忙しくて、学生さんの相手をしている暇がない。それで、教えてもらえないままで書かなければならなくなる。これではいけないのだけれど、当分はどうしようもない。
 そういうわけで、読者の中にアドラー心理学でもって卒論や修論を書こうとしている人がいるなら、忠告しておくが、あきらめたほうがいい。それよりも、せっかくある領域の専門家に指導してもらうのだから、その先生の専門領域を勉強させていただくことだ。きっと一生役に立つ。アドラー心理学なんか、いつでも学べるんだ。

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